永遠なんてない
記録や資産が永遠に残ることはないから、固執するのはやめようという自分に対する戒め。
今に始まったことではなく、何かをきっかけに1定期的に死後の自分の資産をどうするか? ということを考えたりする。資産というと大袈裟だが、自分が今までにやってきた形として残るもの、まさにこのブログもそれに該当する。いわゆる自分がこの世界に「生きた証」として残るものが、死後どうなるのかということが気になったりする。
むしろ残ってほしくないと思う人もいるらしい。ゲーム実況者のレトルトさんは、自分が死んだ瞬間、今まで上げた YouTube の動画が自動的に全部消えてほしいと言っていた2。本心で言っているのかネタで言っているのかわからないが、まあそういう考え方もあるんだなとは思う。
でも自分はむしろその逆で、自分の死後も後世に渡って自分の記録が残り続けてほしいと思っている。正直なことを言えば、それこそまさにレトルトさんのように特定の世界で成功しているわけではないし、仕事にもモチベーションが持てない中で定期的に職を失っては金銭的に苦労したりしている。自業自得だと言われればそれまでかもしれないが、働く意義を見出さなければいけないことも含めて、悩みや苦しみが絶えなかったりする。
そういった日常、あるいは人生全体を含めた出来事や苦難、その他感情を綴り記録として残し、さらにはそれを公開することによって、たとえ多くの人に見られなかったとしてもそこにその記録があり誰でも見られる状態になっているということで、つらい気持ちを少しでも昇華しようと考えているのかもしれない。そして、そうした記録は自分の死後も残り続けることによって、自分がこの世に生きた意味を少しでも見いだせるのではないかと思っている。
しかし現実は厳しい。死ぬと自分でコントロールができなくなる。そして、銀行口座やクレジットカードは、本人が死去したことがわかると凍結・契約終了となるらしい。まあこれは当然と言えば当然なのかもしれないが、そうなると、お金を払うことで維持できるサービス、いわゆるサブスク形式のサービスは、その利用権を失うことになる。
その中の一つに独自ドメインがある。独自ドメインは、特殊なものを除き、基本的には年間で支払う必要がある。そんなに高いわけではない。しかし、死後となると支払うことが難しくなる。銀行口座が凍結したりクレジットカードが契約終了したりすれば、いくら生前お金が潤沢にあったとしても、支払うことはできない。金額の問題ではないのだ。
まとめて事前に支払っておくのにも限界がある。たとえば .com
は 10 年分まとめて支払いを済ませておくことができるらしいが、それでも 10 年という制約がある。仮に死ぬ直前に 10 年分まとめて契約していたとしても、死後 10 年しか残らない。
相続するっていうのも、個人的にはあまり現実的ではない。親とは禍根が残っており、滅多に連絡することもなければもう何年も規制しておらず顔も見ていないほどその関係に軋轢がある。というかそれは関係なくて、仮に親との関係が良好だったとしても、順当にいけば先に死ぬのは親のほうである。災害・疫病・病気・事故・犯罪など不慮の出来事に遭遇しない限りは。
配偶者も今のところいない。仮にいたところで、年齢はそれほど大きく離れないだろうから、同じく不慮の出来事がなければ、死ぬ年代もだいたい同じになるだろう。それに配偶者はいても 1 人だから、仮に若くして自分が先立ったとして、その前に託せたとしても引き継いでもらえる期間は限定的だ。
では子供に託す? いや、個人の記録を子供に託すのは変な話だろう。じゃあその子供に子供ができたら、つまり孫ができたら、その孫にも託すように子供に伝えるのか? 子供にとってはそんなことどうでもいいはずなのに自分のエゴのためにそんなことまでお願いすることはできない。それに、親の心子知らずとも言うしな。というかそもそも子供が欲しいとはまったく思えないし、まさかこのために子供を作るなんてことも考えられない。
じゃあ、法人化や団体名義にするか信託を利用するか。自分がレオナルド・ダ・ヴィンチレベルの偉人であれば、その人が綴った記録(日記)にも価値が出るだろうが、そうじゃないなら自分の記録を残すためだけの法人や団体を作ることもそれを維持することも現実的ではない。信託にしたって、結局維持するための金銭的資金が必要なわけで、死後は稼げないからその金銭的資金が尽きた段階で終了する。しかもこの場合は、仮に配偶者や子供がいたとしてもそちらには相続しないという選択肢を取らないといけなくなるわけで、自分のエゴのためにそこまでする人間が配偶者や子供など残せるとも思えない。
こんな感じで、どれも自分の今の人生を考えると現実的ではないと思った。そうなると一人で、死後もなるべく残る形で記録を残しておく方法を考えるのだが、やはり国家や企業と違って、一個人の記録を永久に残すっていうのは難しいことがわかった。大企業や超有名人など、ある程度、その時代の社会に認知されるような存在であればその活動は本人が何もしなくても後世に語り継がれるだろうし、国や地域の出来事も「歴史」として後世に語り継がれるだろうが、有名でもない個人が「自分史」を残すとなると、その記録を自分でやらなければならないことはもちろんのこと、その記録を残す方法も自分で考えてマネジメントしなければならない。そしてそれは、おそらく現時点では永遠に残すことはできない。
ChatGPT にも聞いた 結果、やはり独自ドメインやレンタルサーバ(クラウドサービス)のような定期的に料金がかかるものは避け、GitHub Pages や github.io
のような無料で利用できるものを使うというのが現実的な解であることは、自分が前に出した結論 と一致した。結局それしかないんだなと思った。あとはそれに加えてバックアップ的な意味合いでインターネットアーカイブにも自分で保存しておくくらいか。
以前にも書いた通り、GitHub にはそれなりに信頼を置いているからこの方法でブログを公開したりしているわけだが、これも永遠とは限らない。GitHub は今日では使わない日は 1 日もないから、長期間不使用によるアカウントの停止のおそれは今のところないが、死ねばその限りではない。
それに今は大丈夫でも、ポリシーが変わって凍結の条件が厳しくなる可能性もある。Twitter のように。(特に無料で)サービスを利用することに関しては、そういった危険性もはらんでいる。じゃあそのようなサービスのルールに縛られないで運営するとなったらレンタルサーバやクラウドサービスを利用するということ以外にないだろうが、それはランニングコストがかかり死後は運営し続けられないのであり……。
管理が自分の手元から離れても、記録とその公開を存続させる永久かつ絶対的な方法が存在しないのであれば、結局のところ、記録に固執する意味はないのかもしれない。今までの自分は、記録することが人生における最重要事項だと思い、どんな些細なことでも記録することに執着していたが、そのせいで逆に負担やストレスを感じたりしていた。そして、大きなことをすると、その記録にも労力と時間がかかるから、なるべく普段と違うことはしないで消極的に過ごすということをしていた。そのせいで人生もつまらないものになってしまっている気がする。
記録はやめない。たとえ永遠ではないとしても、記録して公開することで、同じ境遇の誰かが見て助けになるかもしれないし、自分がどのように生きてきたのかを公開することで、様々な苦難も思い出話となり、少なくとも自分が生きている間は報われるのではないかと思うからだ。だけど、記録に固執しすぎるがあまり、今現在の生活や将来のこと、そしてなりより、自分がしたいと思うことやその感情までも犠牲にしてしまうのは本質的ではないと思った。
今後はもっとやりたいことベースで、そして楽に生きることを目指してもいいのかなと思った。記録は最低限でいい。いつ何をしたかが思い出せるようになっていればいい。その記録を完璧に残すことに、「今」という貴重な時間と労力を消費しすぎてはいけない。記録至上主義から幸福至上主義へ移行する機運が高まってきた。
もしよければページ下からこの記事のリアクションをつけてもらえるとありがたいです。このブログは収益化をしていないため、みなさんのリアクションが更新継続の励みになります。