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AI による創作活動の代替と不快感

Codex を初めて試してみたが、便利であるという反面、自分の創作物が汚染されるようななんとも言えない気持ちになったのでそのことについてまとめる。

今日 Codex をはじめて試してみた。

今までもコーディングをするときに ChatGPT を活用していたんだけど、聞いた結果を自分で理解して、必要に応じて採用したり、必要な部分だけをコピペして使っていた。だからあくまで自分が書いたコードは「自分のもの」というポジションだった。

しかし今日、趣味のコーディングをするときにどう書こうかなと迷うことがあった。そしてふと Codex をインストールして試してみた。VS Code の拡張機能 をインストールして認証して使ってみた。Plus 以上じゃないと使えないみたいなことが書かれていた気がするが、自分は前から Plus に登録していたので問題なく使えた。

そして該当部分に対して修正のプロンプトを出したら修正してくれた。変更されたコードのアルゴリズムを読んですぐに理解できたわけではないが、実際に実行してみると指示したとおりにちゃんと動いていた。つまり、今日改修したかった部分に関しては、自分は一切コードに手を加えることがなかった。

今までも Codex の存在は知っていて、効率的に開発が進められるなら導入するのも悪くないかなとは思っていた。ただ、コードを AI が見て勝手に書き換えるのは、なんというか、ちょっと心理的な障壁があった。こちらのプロンプトに対して自分の今まで書いたコードに AI のコードが書き換えられていくのは、所有物が奪われたかのようなモヤモヤする気持ちがある。

もちろん大した量の変更ではないから、自分で手直しすることもできた。しかしきれいに書こうとか、のちの負債にならないように書こうとか、そんなことを気にしていたら手を付けずに数十分が経過していた。だったら AI に任せてしまえば特に迷うこともなく目の前にとりあえずの完成形が出来上がるので、これでいいんじゃないかという気持ちになる。

でも、この文章が AI 生成ではないように、やっぱり自分が作ったもの、というのに価値を置きたいという心理が人間にはあると思う。コードも自分が考えて作ったというところに満足感と愛着が湧く部分があったりする。一方でできる限り楽をしてやりたいことを実現したいという気持ちもある。特にアイデアをかたちにするという点においては、その過程よりも成果物に価値を見出すこともあるから、そういうときは完成形をイメージして早く実現できないかなと逸る気持ちが生まれることもある。その 2 つの気持ちが互いにせめぎ合って今後の趣味のコードをどう書いていこうかという迷いが生じていた。

さらに、もしかしてこれはコード以外にもまさにこうしたブログの文章なんかも生成できるのではないかと思い、今後公開しようと思っていたメモに対する価値観に関するブログ記事のドラフト(メモ書き)を試しに生成させてみた。そしたらこちらも文章化してくれた。Codex 上でもファイルを自動編集してくれたし、最近は note でも AI 補助機能ができたということで、試しにそれを使ってみたのだが、そちらもいい感じに記事化してくれた。

ブログ記事に関してはコードとはまたちょっと違った感想を抱いた。コードは最終的に実行される結果が自分の想定するものであれば最悪それでもいいという気持ちになるが、ブログ記事に関しては、それは自分が表現したかったことではないという文章になることが、当然だがある、というか実際そうだったので、これは自分で書いたほうがいいかもしれないと思った。もちろんいい表現が思いつかないときに部分的に使用したり、雑なメモをブログ記事としてとりあえず公開したいという場合には使えるとは思うが。

ただ、いずれにしても生成 AI でもある程度まともな成果物が出てくるから、もはや人間いらないのでは? とちょっと思ったりする。それは、いい面もあれば微妙な面もある。成果物だけに目を向けるなら、アイデアを手間をかけず、かつ瞬時に生成してくれる最高のツールだと思う。一方で、創作活動そのものへのこだわりやその成果物が自分の所有物であるということに喜びを見出したいのなら、AI を使うことに消極的になってしまうだろう。

これだけなら使いたいなら使えばいいし、使いたくないなら使わなければいいって結論になると思うが、自分が作ったものとして愛着を持って創作活動をしたいが、しかし AI という便利なツールがある今、あえて非効率なことをして時間と労力を浪費している、と考えると、自分のやっていることに価値を見いだしづらくなっていくという悩みを抱えることになる。それがなかったころはそれが、アイデア含めて「自分にしか実現できなかったこと」だったはずが、今では AI の使い方さえわかれば「誰でもできること」になってしまった。

もちろん時代の進化というのはそういうもので、これを否定する人間は時代に取り残されていくというのが世の常だが、それでも先人たちが納得できないと感じる気持ちって、こういうことなのかなとちょっとわかった気がした。最初からそれがある時代に生まれてくることと、あとからポッと出てきてそれを使うことを強いられることは、まったく別の体験なんだなと思った。

これから自分は、創作活動のマインドをどう持てばいいのだろうか。

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