悟りの境地に達するとはどういうことなのかを知ったら、悟りの境地に達することが怖くなった件
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶!!!!!
わかったけど、わかってなかった
この前、「悟りの開き方を完全に理解したので解説させてください」という記事を書いた。たしかに、悟りの開き方は理解した。でも、実はそんなことを言っていた筆者自身は「悟りの境地」には達していないことに気づいた。
「悟る」というのは、知識として獲得した、理論や理屈を理解した、という知識的理解(分別智)とは区別して、自分の身を持って、心から本当にそうだと思える体験的理解(無分別智)をしたことを指す言葉らしい。だから「悟りの開き方を完全に理解したので解説させてください」の記事で、プロのピアニストにどれだけ言葉でピアノを上手に弾く方法を聞いて、それを知識として完璧に習得したとしても、ピアノが上手に弾けるようになるわけではないというあのたとえは、やはり間違ってはいなかった。
そしてその、あらゆる苦しみから解放され、この上ない安らぎを得た状態とはどういうことかを「悟る」ことを「悟りを開く」を呼ぶのであれば、「悟りの開き方」が何なのかについての理解も、概ね間違ってはいなかった。
しかし、自分はまだ、その「境地」へは達していないことに気づいた。やり方はわかったし、それを身を持って体験することもできて、「良いところまでは行った」という感覚は持てた(これを忘れずに日々の生活で意識していれば、苦しみに飲み込まれることはないだろうという実感は持てた)。
だがそれは、先人たちの達した「境地」ではないということに、今日気づいた。そしてその境地に達する前に、どのような試練があるのかを知った。
悟りの「境地」に達するために必要なこと。それは……
「(精神的に)死ぬこと」
だった。
般若心経に書かれていたのはそういうことだったのかと理解するのと同時に、やはり今の自分には怖くてできそうにない、と思った。
悟りの境地とは?
以下の中でどれか一つでも「いやだなー」と思ったら、悟り(苦しみのない安らぎ)の境地に達していないということになる。逆に言えば、以下のような(自分が「こんなことが起きたら最悪だ!」と思う)あらゆる最悪の事態を想定しても「ま、いっか」と思えるなら、その境地に達したといえる(以下の状況だけに限定せず、あらゆるすべての物事において、だ)。
- 翌朝、目覚めたら、老人になっていた
- 翌朝、目覚めたら、不治の病に冒されていた
- 翌朝、目覚めたら、最愛のパートナーに突然「別れよう」と言われた
- 翌朝、目覚めたら、全財産が消えていた
- 翌朝、目覚めたら、突然仕事を解雇された
- 翌朝、目覚めたら、今まで苦労して身につけたことが、何一つとしてできなくなっていた
- 翌朝、目覚めたら、今まで苦労して覚えていたことをぜんぶ忘れてしまった
- 翌朝、目覚めたら、大切なモノがぜんぶ灰になっていた
- 翌朝、目覚めたら、スマホの中の思い出がたくさん詰まった写真がぜんぶ消えていた
すべて(財産・資産・地位・名誉・名声・フォロワー・仕事・愛する者・思い出の品など)を失っても「まあまた一から人生やり直せば良いや」と思えるかどうか。
まあ、わかると思うが、これらのことが起きてなお「ま、いっか」と心から思えるようになるには、尋常ではない恐怖を乗り越えなければならない。自分が最も大切にするもの(アイデンティティ、命と同等に大切なもの)がなくなることを受け容れることは、それすなわち精神的な「死」を意味する。
あらゆる執着を手放すには困難が伴う
やはりこれは「執着」だった。あらゆる執着を手放してこそ、苦しみのない境地・究極の安らぎだけがある境地に達するのだということを知った。そしてこの執着は、やはり人によって違うのだから、最後は自分で立ち向かわなくてはならない(いくら人から話を聞いても、勇気を振り絞ってこれを実践しなければ到達できない)ということを悟った。
どんな悲劇や不幸(だと世間一般が考えること、または今のあなたがそう思うこと)が起こっても、そのあらゆる悲劇・不幸に対して「ま、いっか」と思える精神を身につけること。一言でわかりやすく表現するならば、どんな出来事に対しても「ま、いっか」と思えること。
そしてそれは自我の崩壊を意味する。アイデンティティの消失を意味する。今まで人生において最も大切にしていたものを失うことを意味する。精神的に、自分が死ぬことを意味する。
「お金こそわたし」の場合
たとえばこんなケース。
あなたが、人間不信で、この世の中で唯一絶対に信頼できるもの(絶対に裏切らないもの)はお金しかない、と思い続け、必死で努力を重ねて億万長者になったとする。総資産 5,000 兆円を持っていたとする。もし明日、銀行のシステムがハッキングされ、全財産を失ったとしても「ま、いっか」と思えるかどうか。
この場合、唯一絶対に信頼できるものが「お金」だけなのだから、「自分のアイデンティティ = お金」となっている。そしてこれがこの人にとっての究極の執着である。だから、もし明日本当に、この 5,000 兆円を失っても、まあ別にいいか、と思える境地に達したなら、あなたはもはや何者にも恐怖や苦しみを感じない、究極の安らぎを手に入れることができる。
もしあなたが拘束されて、その 5,000 兆円を渡さなければ殺す、と脅されて、「はいどうぞ」と、何の執着もせずにそれを引き渡すことができたなら、あなたはもう何者にも脅かされることはない。
まあこの例だと、「犯罪に屈する」ことになるからそれはどうなのとかいう別の議論に発展してしまうので、こういう犯罪的なことではなく、たとえば愛するパートナーや我が子が危篤状態で、その病を治すのに大金がかかるっていう状況で、躊躇なく、全財産を投げうってでもその治療費に充てることができるか。
もちろんこれは、お金に究極的な執着をしている場合の話である。「いや、愛する我が子のためならお金なんていくらでも……」と言えるからと言って、あなたが悟りの境地に達しているとは限らない。あなたにとって、お金が究極の執着になっていない場合ならその限りではない。
「美貌こそわたし」の場合
また別のケースで言えば、たとえばあなたが「美貌」に対して並々ならぬこだわりを持っているとして、毎日自分の美しい見た目を維持するために莫大なお金と時間と労力をかけていたとする。この場合は、お金はあなたにとっての最大の執着ではないかもしれない。
しかしたとえば、不慮の事故に遭って、身体(特に顔などの人目にさらされる目立った場所)に、一生残り続ける大きな傷を負ってしまったとする。それでも「ま、いっか」と思えるかどうか。
この場合、「自分のアイデンティティ = 美貌」だから、自分の身体が傷つくことは、自分の価値・アイデンティティを傷つけられたのと同等の苦しみを背負うことになる。ここにとらわれる、執着を手放せない、「自分のアイデンティティ = 美貌」を捨てきれないと、それが傷つけられたとき、大きな苦しみを伴う(正確に言うと「自分のアイデンティティ = 美貌」に限らず、自分のアイデンティティを一切定義しない状態になっていないと、その何かしらのアイデンティティが傷つけたときに大きな苦しみを伴う)。
そしてまた、生きている限り、もしかしたらそうなってしまうかもしれないと恐怖を感じ、極端に行動を制限するようになる。度が過ぎれば、それは「外には車が走っていて、いつ交通事故に巻き込まれるかもわからないから(本当は行きたいお店があるけど)外出は極力控える」とか「陽の光を浴びすぎるとシミになるから(本当は外へ出て友だちと遊びたいけど)外出は極力控える」のような極端な行動の制限につながる。
「自分のアイデンティティ = 美貌」であるという究極の執着(アイデンティティ・自我)を手放せないから、美貌が失われること(老いも含む)に恐怖を抱き、苦しみ、また、それを避けようと本来やりたいこと(よく外出すること)を制限するから苦しむ。苦しみの連鎖が始まる。
今の例は女性を想定したものであるが、男性だって例外ではない。あなたがボディビルの大会に出場するほどの、多くの男性がが羨む美しい肉体・筋骨隆々の身体をしていたとする。それが、どういうわけか、次の日になったら、何の筋トレもしていないガリガリの身体、あるいはたくさん食べてふくよかな身体に急に変貌していたとしても「ま、いっか」と思えるかどうか。今までの、血が滲むような汗と努力の結晶が、一瞬にして消え去ったとしても「ま、いっか」と思えるかどうか。
繰り返しになるが、「自分のアイデンティティ = お金」とか「自分のアイデンティティ = 美貌」とかに限らず、あらゆるものに対して当てはまる。「自分のアイデンティティ」をそもそも定義しない状態にしておかない限りは、その定義したなにかしらのアイデンティティが傷つけられたときに、大きな苦しみを生み出す。
やっぱつれぇわ
執着の根本原因(お金しか信用できない・世の中しょせんはお金だとしか考えられない人にとってのお金やそれをたくさん稼ぐことができるというアイデンティティ、肉体的な美しさこそすべてだと考える人にとっての美貌やその肉体そのもの)を手放すこと、つまり「これが自分なのである」という、自分を形成する核を捨て去ること、それこそが「悟りの境地に達する」ということなのだと悟った。そしてその境地に達する直前には「自我・アイデンティティの崩壊」という、精神的な死を経験しなければならないという恐怖が立ちはだかることを知った。
そりゃそうだよね。今まで「○○ こそが私の人生だ!」「○○ こそが私の生きる糧(生きた証)だ!」と思っていたものを「捨てなさい」なんて言われたら、そりゃ抵抗したくなるし、本当に捨てようと思ったら、そりゃ怖いよ。自分(という意識、アイデンティティ、それこそが「わたし」という確固たる存在)が(精神的に)死ぬってことだもん。
しかし、その恐怖を乗り越えた先に、あらゆる苦しみから解放された境地がある、そういうことが、般若心経に書かれているのだということを知った。
まあ、考えてみればそうだなと思った。執着を持った自分が、もっとも大切だと思うもの(最もすがりついている執着)を捨てても全然平気! って思える境地に達したなら、もはや苦しむものは何もない。だってそうだろう。その人にとって最も苦しいことが起こっても平気なんだったら、もはや何が起きたって平気だ。最強メンタルだ。
そして筆者は、まだその境地にたどり着いていないことに気づいた。清水の舞台から飛び降りる一歩手前で、足がすくんでしまう体験をした。なるほど、これが究極の執着か、と。
ソワカ
死ぬこと・老いること・病に冒されること・痛みを伴うこと、それらを含めた、どんなことが起きても「ま、いっか」と思えること。究極的「ま、いっか」の精神、それこそが、悟りの境地。
もちろん、この世の人間全員が、それを目指さなければならないということではない。人生は人それぞれ。苦しみを伴ってでも成し遂げたいことがある、または、苦しみはできる限りないほうがいいけど、自分が大事にする核(これこそが自分だと言える究極のアイデンティティ)だけは絶対に捨てたくない(それを捨てたら生きてる意味がない)と思うのなら、それもまた人生だろう。
しかし、この世は諸行無常。今あるものはいつかは失われる。絶対になにかを失わないこと(絶対に死なないこと、絶対に年老いないこと、絶対に病気にならないこと、絶対に愛する者が自分の前からいなくならないこと(運命の相手だと思ったパートナーと絶対に失恋しないこと)、絶対に資産がなくならないこと、絶対に努力が無駄にならないこと、絶対に大切なデータ(思い出の詰まった大事なカメラロールなど)が消えないこと、など)はありえない。この世に「絶対になくならないもの」は、存在しない。それを受け入れた(その執着を手放した)先に、究極の安らぎがあるのだと悟った。
そして、かつて老子は言った。「自分が何者であるかにこだわらなければ、自分になれるだろう」と。あなたがいま「これこそが自分だ(このアイデンティティを捨てたら自分ではなくなってしまう)」と思っているその鎧、それを捨てても、本当の意味で(肉体的・物理的に)あなたは死ぬわけではない。そしてその境地に達したとき、あなたはホントウの意味での本当の自分になれるのかもしれない(知らんけど!!)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶!!!!!
