『知らぬが仏』は究極の無知によって悟りを開くことを表しているかもしれない説
『知らぬが仏』は究極の無知によって悟りを開くことを表しているかもしれない説
『知らぬが仏』とは?
「知らぬが仏」の意味を辞書で調べると以下のように出てくる。
知れば腹も立つが、知らないから仏のように平静でいられる。また、本人だけが知らないで平然としているのを、あざけっていう語。
知らぬが仏(シラヌガホトケ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
現代となってはこれが正しい用法なのだろうが、もしかしたらこの言葉が生まれた当初は別の意味だったんじゃないか? とふと思ったのでまとめてみる。
なお、これはまったく根拠のないただの妄想であることにご注意いただきたい。
空の哲学と般若心経
仏とは、悟りを開いたブッダのことである。ブッダは、悟りの境地にたどり着くとき、この宇宙のすべては縁起によって成り立っていることを悟った。そして時は経ち、そのブッダの至った悟りの境地を正しく理解した龍樹(ナーガールジュナ)は、この縁起の真理を発展させ「空の哲学」を唱えた。
この空の哲学の核心部分は般若心経にまとめられている。要するに、この世の中に「ある」と思い込んでいるものは、実は「ない」んだよ、ということである。
ぼくたちが「自転車」と呼んでいるものは、実は実態はなく、ハンドルやサドル、車輪と言った部品が特定のパターンで組み合わさって人が移動できる乗り物としての機能を有してはじめて「自転車」と呼んでいるだけである。ハンドルとサドルと車輪を分解してしまえば、もはやそれは自転車ではない。
もっといえば、ハンドルやサドルや車輪だって、特定の物質(鉄やゴムなど)をあのような特定のかたちに固めたものをそう呼んでいるだけであって、ハンドルという実態もない、サドルという実態もない、車輪という実態もない。ハンドルを粉々に砕いてしまえば、もはやそれはハンドルではない。
そしてこれは物質に限らず因果関係や物理現象に関しても当てはまる。「ボール A が飛んできてボール B にぶつかった」という事象は、A が飛んできたことが原因で B にぶつかるという結果があるのだとぼくたちは思い込みがちだが、A が飛んでくるところに B が存在していたことが原因だと言うこともできる。
重力だってそうだ。リンゴを手に持った状態から手を離すとリンゴは地球に一方的に引っ張られているように見えるが、実際にはリンゴだって地球を引っ張っている(万有引力の法則)。ただし、万有引力の法則は質量に依存し、リンゴと地球の質量を比べたら地球のほうが圧倒的に質量が大きいから、一方的に地球がリンゴを引っ張っているように人間が勝手に思い込んでいるだけだ。日常生活ではそう解釈したほうが都合が良いから、便宜上それを重力と呼んでいるに過ぎない。
つまり、「自転車」も「因果関係」も「重力」も実態はない。この宇宙から言葉によって恣意的に切り取った一部分を指して、ハンドルとサドルと車輪が特定のパターンで組み合わさって人を移動させることができるものを自転車と呼び、動いているものが動いていないものに作用したから因果関係があると思い込み、リンゴが一方的に地球に引っ張られていると見たほうが都合が良いから重力と名前をつけて解釈しているだけに過ぎない。
そしてこれは自分自身にも当てはまる。こういう状況にあるから苦しいとか、こういうことが起こったから不幸だとかぼくたちは考えがちだが、実はそれも実態がなく、脳がそのように思い込んでいるだけに過ぎない。苦しみも不幸も実態はない。究極的に言えば「あなたが自分の置かれた状況(人生)を不幸だと思ってしまえばそれは不幸」なのである。
不幸という概念を知らないと最強になれる
赤ちゃんは「机の上のお皿に乗ったリンゴ」を理解することもおそらくできていない。それは「机」とか「お皿」とか「リンゴ」という言葉を知らない以前に、机とお皿とリンゴの間に境界線があることが概念として理解できていない。言葉を理解すると、言葉によってそこに(仮の)境界線が生まれ、それぞれを区別できるようになる。
また、おそらく産まれたばかりの赤ちゃんは、(世間的に思う)どんな劣悪な環境に生まれても、(世間的に思う)どんなひどい親のもとに生まれても、不幸を感じないはずだ。なぜなら産まれたての赤ちゃんは、不幸という概念をまだ理解していないからである。また、比較するための対象もない(知らない)からである。不幸という概念を理解してしまうと、自分が置かれた状況にそれを当てはめて、自分は不幸じゃないとか不幸だとか思ったりする。しかしそれも脳が見せている幻で、実態はない。
であるなら、それらを知ってしまった我々大人は、もう成すすべがないのだろうか。不幸だと思ってしまったら、一生不幸のままなのだろうか……?
否。大人でもこれに気づき、言葉による切り取り(分別)をやめ、境界線を引くのをやめ、この宇宙をたった一つとして見ることができれば、不幸ではなくなる。そもそも不幸を定義できなくなる。定義できないのだから、当然自分も不幸ではなくなる。
つまり、赤ちゃんだったころの言葉のない世界、究極の無知、永遠なる初心者の境地にたどり着くことができれば、すべて苦しみから解放されたとされるあのブッダ(仏)と同じ体験をすることができるのである。
『知らぬが仏 = 究極の無知が悟りの境地』?
そう考えると、この「知らぬが仏」という言葉は「単純に事実を知らないほうが幸せなこともある」ではなく「言葉によるあらゆる分別(理解)を捨て去った究極の無知になれば仏と同じ境地にたどり着ける(悟りを開ける)」と解釈することもできるのではないだろうか?
(あとここまで書いていて思ったんだけど、過去にどんなに嫌なことがあっても、それを物理的に記憶喪失してしまえば、そこから不幸を感じることもないって解釈することもできそうだなーと思ったり。)
結局のところ、人は生まれながらにして仏だった(ブッダと同じ境地にいた)が、言葉による分別や先入観、記憶によって仏から遠ざかっていく(苦しみや不幸を感じる)ってことを表しているのかもしれないな。
最後にもう一度繰り返すが、これは筆者のただの仮説、というかもはや妄想であり、何の学術的根拠もない。また、現代の日本語の用法としてはもちろんこれは誤りである。ただ、なんかそんなふうにも解釈できるかもなーとちょっと思ったので思いつきで書いてみた。夜中(もう明け方になってしまったが)に書いているのでただの世迷い言である。
