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今が楽しけりゃそれでいい。縁起を大切に生きよう

今が楽しけりゃそれでいい。縁起を大切に生きよう

今が楽しけりゃそれでいい。縁起を大切に生きよう

みんなが同じことを目指すのは宇宙が許さない

究極的なことを言えば、今が楽しければそれでいい。それがその人にとっての唯一絶対の「正解」である。

そんなことを言ったら、努力もしなくなって堕落してしまう、と思うかもしれない。そしてこれに対して、ぼくは言葉であなたを説得することは、たぶん不可能だろう。

しかし、この宇宙の因果のネットワーク(縁起)からして、みんなが同じ方向(もしくは似た方向)に努力することは、どう考えたってありえないし、あり得てはいけない。

だって、みんなが勉強をがんばって、みんな東大(別に東大じゃなくてもいい)に入ってみんな官僚(別に官僚じゃなくてもいい)になったら、誰が野菜を育ててくれるのだろうか? 誰が豚や牛を育ててくれるのだろうか? 誰が雨風しのげる建物を立ててくれるだろうか? みんなが同じ方向に行ったら人間社会が成り立たない。

絶対的な幸せは存在しない

とはいえ、現実的には農家の人よりも官僚のほうが、(世間一般が考える)裕福な生活をしていて幸せそうに見える。

しかし本当にそうだろうか? いつもニコニコしていて幸せそうな農家の人もいる。いつも怒っていて不機嫌で楽しくなさそうな官僚の人もいる。本人が幸せを感じているかどうかは本人にしかわからないが、客観的に見ても幸せそうとかつらそうとか、それくらいはなんとなくわかる。だから、一般的に裕福な生活をしている官僚の人よりも貧乏な農家の人のほうが幸せなことがあり得るのは、想像に固くないだろう。

この違いが何なのかについてはすでに何度も別記事で述べているので割愛する。たとえばこれを読んでみてほしい 👉 悟りの開き方を完全に理解したので解説させてください

また、そうはいっても実際問題、数(全体)としてそうじゃないように見えることも認める。

だが、この考え方さえ身につけてしまえば(悟ってしまえば)農家という職業にある人が幸せになれないなんてことは、絶対にあり得ない。逆に言えば、一生懸命勉強して苦労して官僚になったからといって、幸せになれるとは限らない。

不幸は存在しない

今が楽しくても、今やるべきことを怠って、その結果、将来が悲惨なことになるなら、意味がないのではないか、と思うかもしれないが、そもそもそれが思い込みなのだ。

だいたい、どういう「(あなたが思う)悲惨なこと」になったら「不幸」を感じるのか? 無職になってお金が底を尽きると「不幸」になるのだろうか? それははたして本当だろうか? 無職になった結果、偶然別の仕事が見つかり、今まで嫌だと思っていた仕事が途端に楽しくなる可能性だってある。そういう可能性をすべて無視して、「無職になる = 不幸になる」と思い込んでいるだけではないだろうか?

あるいは、無職になって次の仕事も見つからなかったけど、その結果、ひょんなことから最愛となるパートナーを見つけて、パートナーの稼ぎがいいから自分はもはや働かなくてもよくなって(いわゆる専業主婦)幸せになるかもしれない(もっとも専業主婦になったからと言って幸せになれるとは限らない。それはあなたが不幸をどう定義するかによる)。

経済的な観点だけで見れば、日本で暮らしている貧しい人よりも、アフリカの貧困国で暮らしている人のほうが生活が過酷であるのは間違いない。言いたいことはわかっている。それでも不幸な日本人はいるし、それでも幸せ(そうに見える)アフリカ人もいる。それは、不幸をどう捉えているかの違いだ。

もっといえば、不幸とはそもそもなんなのだろうか? 不幸とは定義可能なのだろうか? もしそうなら、まったく同じ仕事をしていても、それに誇りを持って取り組む幸せな人と、嫌々やっている不幸な人が存在するのはおかしいはずである。あるいは、人によってこの仕事が楽しいと感じたり、また別の仕事が楽しいと感じたりすることもおかしいことになる。

今この瞬間しか幸せになれない

つまり何がいいたいかといえば、幸せを感じること、楽しいと思うことは、今この瞬間しかできない未来の自分を幸せに感じさせることは、天地がひっくり返っても絶対に不可能だ。今の自分の思い込みで作った願望・目標が叶っても実際には幸せを感じないことだってあるし、そもそも思ったとおりにならないのが人生である。

であるなら、今この瞬間にやりたいと思ったことをやる、楽しいと思うことを無心になってやる、それ以外に、幸せになる方法は、絶対に存在しない。そうした「やりたいことをやっている(幸せな)今この瞬間」の連続的な繰り返しによって、あなたは本当の意味で幸せになれるのである。

すべては縁起

あなたには、あなたにしかできないことが必ずある。あなたの目の前にいる人を幸せにできるのは、あなただけかもしれないのだ。そしてその人が幸せになったら、あなたも幸せになる(情けは人の為ならず)。

ぼくは、農家の人がいなかったら、生きていくことができなかった。今これを書くこともできなかった。だってぼくは、食料という生きていく上で絶対に必要なものを自分の手で作ったことが一度もないからだ(そういう意味では農家に限らず精肉店や工場で働く人たちに対してもそう)。

ぼくは、官僚がいなかったら、いつ殺されていたかわからない。今これを書くこともできなかった。だってぼくは、人を殺さないという秩序を守るための施策を作ったことが一度もないからだ(そういう意味では政治家や警官に対してもそう)。

だからぼくは、農家の人にも官僚にも心から感謝している。あなたたちがいたおかげで、今の自分がいるからだ(それはもちろん他の職業の人に対してもそう)。ぼくは自分の力で生きていたのではない。他人に、社会に、自然に、宇宙に生かされていたのだ。

すべては縁起の賜物である。無理に「この職業に就かないと幸せになれない!」と思い込んで宇宙の因果に背くこと(縁起の悪いこと)をするから、苦しみが生まれ、結果的に不幸を感じるのだ。

農家で働くことに幸せを感じている人が、官僚になったら幸せになれるとは限らないのだ。そうであるなら、あなたは農家であることに、史上最強、唯一無二の誇りを持つべきなのである(官僚が幸せなら官僚もまたしかり)。

農家の人/官僚は、農家のこと/政治だけやっていればそれでいいだなんて、そんな乱暴なことを言っているわけでは決してない。「なんか違うな」と思ったら転職するのも(しないのも含め)それはそれでいい。リクツではなくなんとなくそうしたいと思ってそうしたなら、それもまた縁起だ。

楽観主義者? 笑わせんな

あなたがこれを本当の意味で理解するきっかけになるかもしれないことを伝える。ここまで読んで、ぼくのことを、超楽観主義者やポジティブモンスターだと思っただろうか? それは大きな誤解である。なぜなら、この考えに至る前(悟りを開く前)のぼくは、超超超超超ネガティブモンスターだったからだ。

幼稚園児のときにはすでに「死」について思考し、死んだらどうなるかを本気で考えて、怖すぎてあらゆる行動が止まってしまった経験をしたことを鮮明に覚えている。

中学生(高校生だったかな?)のときに、セックスどころか(親や親族以外の)異性に触れたこともないのに、ちょっと友だちの粘膜に触れてしまっただけで、性感染症になったかもしれないとビクビク震えて、恐怖のあまり保健所に行って検査してもらったこともある。保健所に行って役員の人にそのコーナーの場所を聞くときに、緊張しすぎてめっちゃ声が掠れてしまったことも鮮明に覚えている。

大人になってもそれは止まらなかった。いつか来ると言われている南海トラフ地震や首都直下型地震、それに伴って発生するであろう富士山噴火や津波が怖すぎて、海外に逃げるための基盤を作るためにワーキングホリデービザを使ってシドニーに 3 ヶ月ほど滞在したこともある(見事に大失敗した)。

善人? このオレが?笑

あるいは、「心から感謝している」とか書いたから、もともとそういう感謝の気持ちを大切にする慈悲深い人と勘違いさせてしまったかもしれない。

否。こんなに不公平を被っているのだから、人から施しを受けるのは当たり前だ(感謝なんか必要ない)と思ったことが何度あったことだろうか。ぶつかってきた通行人にこの上ない憎しみを覚え、拷問をして惨殺する想像をいったい何度したことだろうか……。想像の中で人を殺した回数は、今までに食べたパンの枚数より多いかもしれない(冗談抜きで)。しかしそれは自分が苦しいだけであった。

呪縛から解放された

でも、東洋哲学と出会い、悟りを開く前のブッダ(ゴータマ)も超ネガティブだったことを知り、ぼくも目覚めた。あ、人生(の苦しみ)って、そういうことだったのか、と。不幸なんてなかった。悪なんてなかった。ただ勝手にそう判断していただけだった。

それに気づいた瞬間、ぼくの思考は、客観的に「判断」すれば「ポジティブ人間」だし「善人」になった。しかしそんなことはどうでもいい。ぼくはポジティブ人間でもなければ、善人でもない。むしろ逆だった。今はそのどちらでもない、いや、そもそも幸せとか不幸とか、善人とか悪人とか、そんなものはない(定義不可能である)ことを悟った。

言葉では理解できない上に必ず誤解を生む

こういうことを言うと、絶対に誤解する人がいるのはわかっている。今が楽しければそれでいいなら、お金が欲しければ(後先考えずに)盗めばいいとか、ムラムラしたら目の前の人をレイプしていいとか、そんなわけ絶対にない。

それは、お金や性暴力という執着にまみれているからであって、本当にそうしたいなんてことは(倫理的・道徳的以前に)生物的にありえない。そういう場合は、必ずどこかに執着があるはずだ(性欲は本能かもしれないが、レイプは本能ではない。お金が本当にただの紙切れなら、それ欲しさに強盗する、あるいは加担させられることがないのと同じように)。

あるいは「お前の言うとおりにしたら人生メチャクチャになったぞ、どう責任取ってくれるんだ!」とか言う人も出てくるかもしれない。これもやはり誤解だ。どういう「結果」になったとしても「人生メチャクチャ」だとあなたが思えばメチャクチャになるし、そう思わなければ(定義しなければ)どうなろうがあなたの人生はメチャクチャではない。

そして、そこまで極端な考え方をしなかったとしてもなお、これは言葉で伝わるものではない。仮にもしそうなら、世の中にゴマンと溢れる自己啓発本のどれか一冊でも読めば、誰でもたちどころに苦しみから解放されるはずだからだ。

同じように、これを読んだからと言って、絶対に理解できる(悟る)とは限らない。だけど、もしかしたら、これを仮に 100 人が読んでくれたら、その中の 1 人くらいは、理解してくれるかもしれない。そういう縁起があって、ぼくはこれを書くに至った。

さいごに

現代的な価値観からすれば「今が良ければ(楽しければ)それでいい」という考え方は、受け入れられないものであろう。抵抗したくなるだろう。反論したくなるだろう。今は、それでいい。

しかし、これを頭の片隅にでも入れておいて、ふとした瞬間に「あー!!! そうか、そういうことだったのか!!!!!」となにかのきっかけであなたがこれを理解してくれる(悟ってくれる)ことを、ぼくは心の底から願っている。そのときは、ぼくに感謝の言葉を伝えなくても良い。その人生を全力で生きてくれれば、ぼくはそれだけで幸せである。

This post is licensed under CC BY 4.0 by the author.