科学を信じれば信じるほど幸せからは遠ざかる
科学を信じれば信じるほど幸せからは遠ざかる
はじめに
思い切ったタイトルに変えた(もともとは『今度どんなに科学技術が発展しても(それだけでは)幸せになれない理由』だった)が、これが宇宙の真理であると確信を得た。
それを今から「言葉」で説明するのだが、この真理は言葉や論理ではそもそも説明ができないものなので、論破しようと思えば簡単に論破できるはずだ。しかし、だからといって宇宙の真理が「そうではない」と否定したことにはならない。繰り返すが、言葉や論理では説明不能だからだ。
ウソだと思うなら、科学的根拠のみに基づいて幸福になるためのあらゆること(健康やメンタル改善など)を完璧にこなして、死ぬ直前まで一切不幸を感じないことを生涯をかけて検証してみれば良い。
……と言いたいところだが、そんなことはそもそも現実的ではないし、「今の科学では解明されていないこともあるんだからうんぬんかんぬん……」とヘリクツを言われてしまうので、やっぱりこの真理は、言葉や論理で説明することも証明することもできない…… できようはずがない。
ともかく、科学がどんなに発展しても、人類は豊かになるだけで幸福になるわけではないということは(言葉では証明のできない)真理だ。悟りを開いた者にはこの意味がわかるだろう。
この文章は、悟りを開いた者に対してだけ伝わる趣味のようなもの、あるいはどこかの誰かが悟りを開くきっかけを与える手助けをするものとして書いている。趣味なので、別にこれをみんなに理解してもらおうとは思わない、というかできない。そういう前提で、気楽な気持ちで読んでほしい。
科学は遠回りしかできない上に絶対的な答えにもたどり着けない
科学的にも東洋哲学の効能が証明されつつあり、「マインドフルネスがいいですよー」とか「瞑想するとメンタルが改善しますよー」とか言われている。悟りを開いてしまった今となっては完全に理解できるし、もはやそんなの当たり前じゃん(科学的根拠を持ち出すまでもない)とすら思えてくる。
これは数学でたとえるなら、東洋哲学が 5 (瞑想) + 5 (縁起) という方法論を使って 10 (メンタル改善) という結果を導き出すのに対し、科学は 10(メンタル改善)という結果を得るためには何と何を足し算すれば(どういう方法論を使えば)良いのだろう? と考えているような回りくどさがある。
これが自然数の範囲内であることが「科学的に」証明されているのであれば、方法は 1 + 9, 2 + 8, 3 + 7, 4 + 6, 5 + 5 の 5 通りで済む(順番は考慮しない場合)が、もし自然数という前提もなければ、「いや、もしかしたら 0.5 + 9.5 かもしれないよ」とか「0.01 + 9.99 の可能性だってあり得る」とか言い出して収集がつかなくなる。
これは、「瞑想はメンタル改善に良い」が、ただし「瞑想すれば絶対にメンタル改善するんだと盲信するのは良くないよ」とか「目の前の嫌なことから逃げるために瞑想するのは逃避になるから逆効果だよ」とかそういうことと考えてもらえば良いだろうか。
悟りを開いてしまうと、「いや、そんなん当たり前じゃん」ってなるんだけど、科学ではこの「当たり前」は通用しない。なぜなら分別智(言葉や論理によって物事を理解すること)で必ず説明可能であることを前提に、かつ「証明」しなければ認められないからだ。
西洋哲学(科学)と東洋哲学の根本的な違い
科学とは、西洋哲学から発展した学問であり、人間(正確には「わたしという意識体験」)の外側の世界の現象を知るための学問である。そうであるがゆえに科学では客観的事実を重要視する。西洋哲学および科学では、理論を自分の言葉で説明できれば、それすなわち理解したとみなされる。
一方で東洋哲学は、人間の内側を知る(「自分とはなにか?」を知る)哲学である。そしてこれは、理論や言葉ではなく、頭の中で「あー!! そういうことか!!!」という強烈な「体験」を持ってはじめて理解したことになる。日本語では前者(言葉や理論で理解すること)と区別して「悟る」という。
だから東洋哲学では、いくら言葉でそれを説明できたところで、悟っていなければ理解したとはいえない。そしてそれを客観的に他人が判断することもできない。「悟った」と口で言っても実は悟っていない可能性だってあり得るし、悟ったけど外見的には(周りから見たら)まったく変わっていないようにも見えたりする。
そして、人間の内側を知る哲学であるからこそ、「なぜ苦しみを感じるのか?」とか「なぜ不幸なことばかり起こる(と思い込んでいる)のか?」といったことが、悟りを開くことで理解できる。逆に言えば、どれだけその理由を言葉で聞いたとしても、あの頭の中での「そうか!」という体験をしないと(悟らないと)、本当の意味では理解できない。
科学の限界
ここが科学(西洋哲学)の限界である。科学はあくまでも「わたしという意識体験」の外側の世界しか観察しないので、どれだけ外から客観的に観察しても「わたし(が苦しむ理由)」はわからない。これは科学の性質上の問題だ。
これは脳科学に関してもそうだ。「いや、マインドフルネスとか瞑想とか坐禅の効果は科学的にも実証できているじゃないか」と思うかもしれないが、それはあくまで人間の脳という臓器を「外側から客観的に」観察した結果に過ぎず、どこまでいっても「わたしという意識体験」が苦しみを感じる理由やそれを消す方法までは解明できない。科学がこうした特徴を持っている以上は、今後どんなに科学技術が発展しても、これはわからない(科学的に証明できない)だろう。
しかしこれを強烈な体験を持って悟った場合、話は別だ。「わたしという意識体験」に限っていえば、東洋哲学は(今後どんなに科学技術が発展しても)科学よりも多くのことがわかる。メンタル最強になるための方法論を新たに生み出すことさえ可能だ。実際に先人たちが生み出してきた瞑想や座禅なんかがまさにそれだ。
科学は既存のこれらに対して一つ一つ「効くか効かないか」とか「どれくらい効くのか」とか、せいぜい「どうすればより効くようになるか?」くらいしかわからないだろう。外側(脳という臓器を客観的に)しか見ていないからだ。
はっきり言って効率が悪いし、「どうすれば幸せに生きられるのか?」みたいな、人類の普遍的な質問には一切解答できない。将来的にどんなに脳科学が進歩しても「アルツハイマーが治せるようになる」くらいが関の山だ(それはそれですごいし実現してほしいことではあるのだが)。
筆者の実体験
これは筆者の実体験を考えても当てはまる。なんかさんざん科学をこき下ろすような物言いになってしまっているが、もともと筆者は科学や健康オタクで、この手の問題を考えるときは、なるべく信頼できそうなソースから科学的根拠や知見を集め、それを実践しては効果を感じられなかったりめんどくさくなってやめたりしていた。
その中に、瞑想(マインドフルネス)がある。毎日ではないものの、2018 年か 2019 年ごろからずっと続けているのに、一向にメンタルが改善しないどころか、(科学的に)ちゃんとやっているはずなのにむしろメンタルが悪化したりすることもあった。「科学的根拠あるっていうけど、これ本当に効果あるのか?」とか「自分のやり方が良くないのか?」とか思ったりしていた。
でも、東洋哲学と出会い、「あー!!!そういうことか!!!!!」ってなってからは、科学的にしか知らなかった瞑想の何倍、いや何十倍もの効果を実感することができた。というかむしろこの「体験」をせずに瞑想だけをただ科学を信じただけの方法論として実践することのなんと非効率なことか……。
もちろん瞑想や座禅そのものが悟りを開くための方法論であるから、これが無駄だとか非効率だって言いたいわけではない。しかし、その方法論を実践することそのものが目的になっていると、いつまで経っても効果が実感できなかったりする。
そしてその(悟りを開く)方法は人によって何が効く(何をすると悟りを開きやすい)かは異なる。瞑想や座禅で達成することもあれば、「喝ッ!!」とか言われてびっくりして気づくこともあれば、禅問答というわけのわからないナゾナゾを解こうとして理解できることもある。筆者の場合は東洋哲学の本を読んで、今までの人生を振り返ることで悟りを得た。
だから、一概に(科学的にも証明されている)瞑想や坐禅をしさえすれば絶対にメンタルが改善するってわけでもない(「科学的根拠があるから」という理由でその方法論そのものを目的としてしまう場合は特にそうだ)し、筆者のようにそれ以外の方法であっさりと科学的知見以上の圧倒的な効果を得てしまうことだってあり得る。東洋哲学は科学でもなんでもないのに(むしろ非科学的な面すらあるのに)、だ。
手段を目的化した瞬間に崩壊する
つまりこういうことだ。科学的にも証明されている仏教や禅のテクニック(瞑想や座禅など)を、悟りを開くための方法論として用いるのであれば構わない(ただし悟りを開くことを目的にするのもまた問題であることが難しいところだ。悟りを開けなくてもまあいっかという軽い気持ちで望むくらいがちょうどいい)。
しかし、その方法論自体を「メンタルに良いから」という理由で目的化してしまうと、効果を実感しにくいどころかむしろ逆効果になったりする。効果を実感できるとしても、せいぜい「精神的にすごく安定している!」程度のものだろう(もちろんそれで十分ならそれで構わないんだけど、苦しみを感じなくなるわけではない)。
逆説的に言えば、悟りを開いてしまうと、こうした方法論は日常生活で常に自動的に行われているようなものになる。「座って目を閉じて脳裏に浮かぶ妄想や思考を観察する」というような方法論を意図的に実行しなくても、常に日常生活が勝手にそうした状態になる(何があっても「あー、また脳が妄想してんなー」とか「身体がなんか不快感を感じているなー」的な他人事のような感じ)。
そしてこれらがすべて悟りを開くための方法論の一つとして有効であることも理解できる。道ゆく人の幸せを心のなかで願ってみるとメンタルが改善するのは、縁起の真理に近づくからである。外に出て自然の壮大さに触れて心がすっきりした気分になるのは、梵我一如の真理に近づくからである。今この瞬間に集中すると充実感が生まれるのは、諸行無常を心や身体で体感するからである。
でも、どの手段を用いても、メンタルが改善したことに満足してそのやり方だけに執着してしまう(ただそれをやることが目的になってしまう)と、そこで止まってしまう。宇宙の真理にはたどりつけないし苦しみもゼロにはならない。
科学でも「人によってどのテクニックが効くかは異なるので、いろいろ試してみましょう」と言われるところに関しては同意する。何をしたら悟りを開けるかは、人それぞれだからだ。だが、どの手段を用いたとしても、それをやること自体を目的にした時点で、それ以上のことは何も起きないか、むしろメンタルが悪化することさえある。
だからこそ、断言できる。これから先、どんなに科学技術が進歩しようとも、今の人間が人間である限り(それこそ科学技術が発展して遺伝子を自由に組み替えられるようになるとか、人間が突然変異で急に進化するとか、そういうことがない限り)、そして今の科学がこうした論理や研究の積み重ねの延長線上にある限り、人間が本当の意味で幸せになることは決してないだろう。東洋哲学(悟りを開くこと、人生のあらゆる苦しみを消すこと、宇宙の真理を理解すること)は、それくらい大きなインパクトを与えてくれるものだ。
「こうしたら、こうなる」という因果関係はこの世に存在しない
よく科学の世界では、因果関係を証明するのが非常に困難だったりする。運動をすると健康に良いのは、運動自体に健康促進効果があるのか、運動をよくする人は健康にも気を遣っているからなのかはわからない。いわゆる「卵が先か、鶏が先か」というやつだ。あくまで確率論として、運動自体に健康促進効果があるっていう可能性がかなり高い、としか言えず、100% 絶対にそうだとは断言できない。
しかし、そんなことは東洋哲学を学ぶと「当たり前」である。なぜなら、そもそも因果関係はこの世に存在しないから(人間のただの思いこみだから) である。
ボール A が飛んできてボール B にぶつかるのは、A が飛んできたのが原因なのか、A がぶつかるようなところに B が存在していたことが原因なのかは誰にもわからない、というかそんな因果関係ははじめから存在しない。「なにぶつかってきてんだよ!」も「ぶつかるようなところにお前がいたのが悪いんだろ!」も、どちらも正しくないし、どちらも間違っているといえるわけではない。そもそも「因果関係」も「正解」も「不正解」も存在しない。
「ない」ものを「ある」と決めつけているんだから、当然そうなる。そもそも因果関係などこの世に一つも「ない」のである。ぶつかったヤツが悪いのか、邪魔なところにいたヤツが悪いのかを議論する意味すらない。
だから科学的な「こうすると、こうなる(運動すると健康になるとか、赤身肉を食べるとガンになりやすいとか)」っていうのは、誤解を恐れずに言えば全部(科学というものを知ってしまった多くの現代人全員が共有する)思い込みである。どこまで言ってもただの確率論になる。普段まったく運動しない人を連れてきて運動させたら健康になることが多いから、運動が健康に良いと言える確率が高そうだ、程度でしかない。それが科学の限界である。
ぶっちゃけ、科学的にまったく実証されていないトンデモ論でも、本気で信じてしまえば本当に健康になったりメンタルが改善したりすることもある(プラシーボ)のはそのためだ。「運動は健康にいいんだ!」と信じれば本当に健康になれるし、「いやそんな単純なわけねーだろがめんどくせえなあ……」と思いながらやればむしろ不健康になる可能性だってあり得る。
そして「運動は健康に良い」っていうことが科学的にほぼ確実になってきた(あくまで確率的に)し常識にもなったので、多くの人は運動すると健康になるだろう。つまり、多くの人がこのプラシーボ効果の恩恵を受けられるだけに過ぎず、もしこれが常識じゃなかったら、結果はまた変わっていたかもしれない。
また、これを多くの人が読んで「あー、なるほどな。じゃあもしかしたら運動が健康に良いとは限らないのか」と思う人が増えれば増えるほど、運動に対する健康効果が下がってしまう可能性がある(もし本当にそうなったらごめんなさい 🙇♂️ でも逆を言えば、不健康だと科学的に言われていることでもあなたがそうだと思わなければ、もしかしたらそれをした結果、健康になれる可能性だってゼロではないとも言える)。
ない! ない!! ない!!!
だいぶ話は脱線したが、マインドフルネスだって、そういうことだ。つまり、瞑想や座禅をするからメンタルが改善するんじゃなくて、悟りを開きこの宇宙の真理を理解してすべての苦しみから解放されたことで、勝手にマインドフルネスになる(日常のすべてが瞑想や座禅といった方法論の「科学的な」恩恵を常に受けている状態になる)とも言えるのである。
というかぶっちゃけると「そう」なんだけど、これは科学が進化しまくってめっちゃ信用されるようになったこの世の中ではただの迷信になっちゃうので、やっぱりどこまでいっても科学と東洋哲学の真髄は相容れない。科学では宇宙の真理を絶対に証明できないけど、それを「科学的に(言葉で、論理で)」証明することもできない、という皮肉だ。
「そう」って言い切っちゃったけど、これも因果関係などないならそう言い切ることも本当はできないんだけど、なんかもうめんどくさくなってきたからこれ以上は説明しない! ていうか言葉ではどこまでがんばっても無理!!
東洋哲学は、ひたすら「ない、ない、ない」を主張するものであり、「ないものを証明するのは悪魔の証明」である科学では絶対に解き明かせない。
まとめ
もちろん科学はありがたい学問である。これが発展したおかげで、我々は今日における豊かな生活を享受できている。それには感謝するばかりである。
しかし、人間の内側(わたしという意識体験)に限って言えば、それはすなわち「どうすれば苦しみを減らせるか?」とか「どうすれば幸せに生きられるか?」といった、人間の普遍的な問いに関して言えば、申し訳ないが科学では足元にも及ばない。
これだけ「科学信者」だった筆者が、東洋哲学と出会い、その価値観がガラッと変わってしまった。まるで長い間ずっと悪夢を見続けていたようだ。30 歳になり、ようやく「目覚めた」。
『書を捨てよ、町へ出よう』とは、よく言ったものである。まあこの体験を得るためのきっかけは『書』から得たんだけど……。
