Post

この世界は、幻想。偽りの生を与えられているだけ。そうだとしても、そうじゃないと思い込むことが『生きる』ということ。

我思う、しかし我なし。

この世界は、幻想。偽りの生を与えられているだけ。そうだとしても、そうじゃないと思い込むことが『生きる』ということ。

病院に行って病気と診断されるまでは病気じゃない可能性がある

SNS にこんなことをつらつらと書いていた。

病院に行って「あなたは病気です」って言われるまでは病気じゃない可能性ってあり得るよな。「いやそんなわけないだろ、馬鹿じゃないのww」って思うかもしれないけど、量子力学(科学だよ!!!)について学んでいると、これがあながち与太話でもないなーって思ってしまう。かといって、「病院に行かなければ絶対に病気にならない」とか「秒に行くな!」とか言いたいわけでもなくて、なにか症状があるならそれを治すために行ったほうが良いけど、常に「気づいていないだけの病気があるかもしれない」って思うのは、それ自体が思考の病気のようなものであって、病気と言われるまで病気じゃない可能性があるなら、過剰に病気のことを気にするほうがむしろ病気だなと思ってしまう。 [1]

それをもっとはっきり科学的に証明するものとして、なんの医学的効果もないけど、「これはあなたの病気を治す薬です」って医者から言われて処方されたただのカプセルを飲むと、実際に病気の症状が緩和されるっていう効果も確認されているわけだし(いわゆるプラシーボ効果)。でも、「これはプラシーボかもしれない(医学的には何の効果もないカプセルかもしれない)けど、本当に効果があると信じれば効果が出るって科学的に言われているから、信じることにしよう」って思うのは、信じていないのと同じなわけで……。

だから、究極的には、この現実世界と呼ばれているこの世界は、『ぼく』という意識が見ているただの夢で、それを科学的に証明する手段なんかないに決まっているんだけど、それでも本当にそうであると思い込むことができたとき、はじめて人生のすべての苦しみ・悩み・つらさ・不幸から解放されて、ニルヴァーナ(涅槃)に達するってことなんだろうな。 [2]

ちなみにそれを本当に信じられるようになる直前には、「この世界は実はぼくの見ている夢である」「この世界はあなた独りだけである(他人は、自分と同じように意識や感情があるとあなたの脳が思い込むただの有機物の幻である)」ということに気づいてしまい、とんでもない恐怖と不安と孤独感に押しつぶされて本当に卒倒しそうになるんだけど、まあ、がんばれってことだな。その先に悟りの境地(なんの苦しみも悩みも存在しない世界)があるよ。 [3]

この宇宙はぼくであり、ぼくの見ている夢であり、ぼくしかいない、ってことに気づいちゃったけど、それでも、みんながいてくれるおかげで、ぼくは独りじゃないという夢を見ることができて、幸せになれるんだ。みんながいてくれるおかげで、ぼくは幸せになれる。みんな、いつも、そこにいてくれて、ありがとう 🥰 [4]

「何を馬鹿なことを」「何を非科学的なことを」「何を世迷い言を」「こいつ精神異常になったな」って思うだろ? 「そんなことは認めたくない!」って抵抗するから、認めようとしないから、悟りを開くのは難しいと思っちゃうし、人生は苦しいままなんだよ!! 他人に自分と同じように意識があるっていうのも、自分が見てなくても知識だけ知ってそれが事実として存在すると思うのも、科学は事実のみを語っていると信じるのも、人生がつらいのも、悟りを開くのが難しいと思って自分にはできないと思うのも、ぜんぶぜんぶ、ただの思いこみだよ!!! 認めちゃいなよ。楽になれるよ。 [5]

「人には親切にしなければならない」っていうのは思い込みで、そういうあらゆる思い込みをすべて捨てて無我になると、人は勝手に人に親切にしているというのが正しい解釈なんだけど、これを「正しい解釈」だと思うのも実は思い込みであって、それを思い込みだと思ってしまうのもまた思い込みで…………(以下略) [6]

だから、結局は、何も考えないようにすれば人生は勝手にうまくいくんだけど、「考えないようにする」っていうのは、考えているのと同じことで、妄想や煩悩はどこからともかく勝手に現れるものだから、それを消そうとするのは、むしろ増やすのと同じこと。だから、妄想や煩悩(承認欲など)が生まれたら、「………… という夢を脳という臓器が見ている」というメタ認知をする訓練を積む(修業をする)しか今のところはなさそうなんだよなー。もっといい方法があればいいんだけど、今のところ思いつかない。 [7]

そして、こうやって哲学をしている間は、「こうすれば、うまくいく」という考えにとらわれているから、やっぱり本当の意味では幸せにはなっていないのだと思う。「思い込みにとらわれない」ことにとらわれているようなもの。だから、メタ認知すらしていないその瞬間が、もっとも幸福ということなのだろう。 [8]

こうやってあらゆるものが思い込み、夢、妄想であるとして現実を否定していくと、ふわっとなって、この肉体から魂が抜けるような、そんな感覚を覚えるんだけど、それを極めたときに、この肉体を生かしたまま、精神だけ極楽浄土に向かわせることができるんだろうな。まだ実際にそうなってないからたしかなことは言えないけど、なんとなくそんな感じがする。 [9]

ここまでを SNS に垂れ流して、ハッ、とした。

悟りの境地に達するって、つまり…………

いや、しかし。しかし、こんなことを書いていても、現に巨大地震は怖いと思っている。建物に押しつぶされて尋常じゃない痛みを感じ苦しみながら死ぬかもしれないことに恐怖を抱いている。「それはただの思い込みだ。だって、『ぼく』という意識がこの宇宙そのもの なのであって、そういう恐怖を抱くこともまた、『ぼく』という意識(この宇宙)のいたずら心なんだ」って思うと一瞬は安心するんだけど、またすぐにこの恐怖が戻ってくる。

それでも、この仏教や道教の考え方を信じて、「そういう恐怖をこの脳が妄想しているんだなー」って客観視して、今この瞬間に意識を戻す、っていうのを繰り返していれば、いずれはこの恐怖もすっと消えるようになり、仮にまた生まれても、すぐに払拭できるようになっていくんだろう………… と思っていた。

つまり、現実世界と呼ばれるこの夢の中で、『この肉体』を存続させたまま、精神だけは何の苦しみもない極楽浄土へ向かわせることが可能なのだ、と思い込んでいた。だって、言葉は違えど、ブッダも龍樹も親鸞も、同じようなことを言っていて、それを心から実感することができたからだ。

だけど、ちょっと待てよ…………。もしかして、それも思い込みなのか…………? もし、この宇宙が『ぼく』という意識そのもので、この現実だと思いこんでいるものが、実は『ぼく』が見ている夢だったとして、今まさにここで起こっていることも思い込みなんだとしたら、昔の哲人(偉人)がこんなことを言っていた、っていう歴史的事実も、『ぼく』が作り出した幻で、それが確実なものであると信じるように脳ができているだけなんじゃないか…………? もしかしたら、そういう恐怖や孤独感を乗り越えた先に涅槃(悟りの境地)があるっていうのは、精神的な死を乗り越えたら訪れるっていう比喩として言っているんじゃなくて、文字通り死ぬことで、到達するってことなんじゃないのか…………? って思ってしまった。そしてまた、『この肉体(脳)』は恐怖のどん底に叩き落とされた。

だってさ、「もし本当に死んじゃわないと、本当の意味での、あらゆる苦しみから解放された世界が訪れないんだったら、その、昔の哲人は、どうやってそれを書き残したんだよ? どうやったらそういう情報が後世(現代)まで伝わっているっていうんだよ笑」って思うかもしれないけど、この宇宙は『ぼく』なんだから、そういうふうな歴史があるっていうことを、あたかも真実であるかのように思い込んでいる脳があるだけなのかもしれない。そして同じ情報を共有できる人間がいるっていうのも、この宇宙が作り出した幻でなのかもしれない。

だって、現に地震の恐怖はふと沸き起こるし、沸き起こるたびに「あらゆるものが思い込み、夢、妄想であるとして現実を否定していくと、ふわっとなって、この肉体から魂が抜けるような、そんな感覚を覚える」って言ったけど、「それを極めたとき」にどうなるか? ってことは、誰もなにも言及していなかったじゃないか!! もしかしたら、それを完全に極めてしまったとき、すべてが思い込みだということを認めてしまったとき、この宇宙(『ぼく』という意識)が崩壊して、本当の意味で死んでしまう(精神的な死ではない)ことを意味しているかもしれないじゃないか! それこそが「究極の安らぎに達すること」なのかもしれないじゃないか!!!

そう思ったら、え、やっぱり、すべての苦しみから解放されるって、究極の幸せを手に入れるのって、本当の意味で死ぬってことなの…………? 死なないと、この恐怖からは逃れられないの…………? と思って、『この肉体』は恐怖で完全に停止してしまった。恐怖のどん底に叩き落とされたんじゃない、『底』がなかったんだ。無限に落下する恐怖を味わった。

自分が消える実体験

実際、これをちょっぴり『体験』してしまっている。1 〜 2 週間前のことだったと思うけど、瞑想(オープンモニタリング)を 1 時間弱続けていたら、妄想が生まれなくなって、煩悩が消えて、感情も思考もなくなって、身体の感覚が徐々になくなっていった。そして、「ぼく(『この肉体』)はここにある」っていう感覚すら徐々に感じなくなった。

だが、最後の最後に残ったものがある。それは、呼吸をしている感覚だ。鼻腔を抜ける感覚、肺が膨らんだりしぼんだりする感覚。これだけは、呼吸をしている限り、消せなかった。ただ、唯一これすらも消せそう(完全に存在の感覚の意識を消せそう)な方法が一つだけあって、それが、「呼吸を止めること」だった。

でも、みんな知ってるよね。呼吸を止め続けたら、死んじゃうんだよ。あれ? じゃあ、このまますべての感覚を消したら、本当の意味で死んじゃうってことじゃん。そんなことは、考えるまでもなく、いやいや、「それはあかんでしょ笑」ってなって、呼吸を止めるのはやめておいた。

自己矛盾

だけどさ、究極の状態っていうのはさ、そういうことだよね。あらゆる思考や感情、煩悩や妄想から解放されるっていうのは、そういうことだよね。あれ、じゃあ、やっぱり死なないと、この境地にはたどり着けない…………? 仏教や道教の教義って、結局は死ぬことでしか究極の安らぎ・幸せには達することができないって意味だったの…………? も、も、もしかして、「生きたい」っていうことそのものが、執着だったってことか…………??? そ、それすらも、手放さないと、本当の、本当の幸せって、得られないの…………?

「う、う、う、嘘だ!!! そんなはずはない!!」

あれ? だけど、そんなふうに否定したら、「『何を馬鹿なことを』『何を非科学的なことを』『何を世迷い言を』『こいつ精神異常になったな』って思うだろ? 『そんなことは認めたくない!』って抵抗するから、認めようとしないから、悟りを開くのは難しいと思っちゃうし、人生は苦しいままなんだよ!!」って自分で言ってたのに、自分でそれをやっちゃってるってことじゃん…………!

え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、………………? 死なないとダメなの…………? 本当の本当の意味で、死なないとダメなの…………? え、ど、え、う、え、ま、え、え、え、え、え、ま、ま、え、…………??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………… ん? でも、全部が思い込みなら、ここまでのパニックの中でも、どこかに思い込みがあるってことなんじゃないか…………? 「死ななきゃ本当の意味で苦しみから解放されない、究極の安らぎは手に入らない、幸せになれない」っていう、それ自体が思い込みっていうことを、なんで疑わなかったんだ…………? あれ、じゃあ、こっちが思い込みだっていう可能性もあるわけで…………。んんんんん?????

永遠の無知になった

結局、どの『思い込み』を、思い込みだと分かった状態で、それでもあえて信じるか、っていうのが、この、現実世界と呼ばれている思い込みの中を生きるということなのかもしれない。この現実世界という名の思い込みを『生きる』ということは、信じたい思い込みを信じることでしか、存在し得ないのかもしれない。

まあ、自然に死ぬまでは、その思い込みの中で生きていれば、それでいいのかもね。恐怖や不安や怒りが湧いたら、「それって思い込み(脳の妄想)だよね」って思うことで、その感情がすっと消えて一時的に楽になるなら、そして、そうした恐怖も生きている限りは完全に消えることはない けど、それでも楽しいこともあるこの人生を、とりあえず自然に死ぬまでは楽しんでから死にたい(極楽浄土へ生きたい)なら、たとえその思い込みが思い込みでも、思い込めばいいのかもね。偽りの生だとしても、それで絶望する意味なんて、ないのかもね。

あの水晶の前に立つまでは、偽りの生を与えられているとは想像だにしなかった

BUSIN Wizardry Alternative 白髪の剣士のセリフ

とりあえず、誰かと楽しくおしゃべりしたい。誰かを愛したい、愛し合ってセックスがしたい。ただ、それだけのことになっちゃった。なんだこの、何の教訓にもならん真理は!!!笑。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……………………………… って、結局これって、何も悟ってない状態と一緒じゃん!!!!! いわゆる一般的な現実世界の解釈と一緒じゃん!!!!!!!!!!

まあ、そういう願望(おしゃべりしたい、愛したい、セックスしたい)があるっていうのも、これが真理だっていうのも、思い込みの一つなんだけどね…………(以降、これについて哲学する限り、この思考が無限に続くのである………… 考えても無駄無駄無駄無駄ァーーーッ!)

信じたい思い込みを勝手に選択して思い込めば良い

とにかく、自然に死ぬまでは、何も考えなくていいよ。いつか死ぬことを防ぐことはできないし、死んでもぼくの解釈なら極楽浄土だし。まあそれすらも思い込みで、本当は無限に続く地獄の世界が待っているかもしれないけど、それって本質的には死ぬのが怖いと思っているのと同じであって、そんなのわからんから、考えれば考えるほど恐怖が増すだけなんだよ。

だから、なにも考えなくていいよ、ホント笑。自分が楽になる、楽しいと思えるように、思い込もう。怒りや恐怖などの苦しい感情があるという思い込みや「こんなことをしたら将来が……!」っていう思考があるという思い込み、また、それが現実になるかもという思い込みは、思い込みとして処理すればいい(そうすればすっと消えて楽になるし、やりたいことが自由にできるようになる)。そして、本当に死ぬことでしか究極の安らぎを得られないという思い込みは、思い込んだままでいいよ。都合よく思い込めばいいよ。

だってさ、すべての思い込みを思い込みだとしてしまったら、死ぬことでしか、思い込みの連鎖からは抜けられないってことになる。そんなの、地獄すぎる。怖くてたまらない。結局、死ぬことでしか、本当の本当の意味では、何の苦しみもない状態(安らぎ)が手に入らないなんて………… そんなの、そんなの、そんなの…………!!

死ぬのは怖いとか、死ぬ直前に苦しむのが怖いとか、それすらも思い込みだって思っても、現にそうやって恐怖の妄想をしてしまうことからは逃れられない わけで、それって、生きてる限り恐怖からは逃れられないってことなわけで、つまり本当に恐怖を感じたくないなら、死ぬしかないってことになっちゃうわけで、でも死ぬのは怖いわけで…………。

どっかで、この無限ループから抜ける必要がある。この生すらも思い込み(こういう宇宙で生活しているという夢かも)だけど、死ぬことでしかあらゆる苦しみからは逃れられないかもしれないけど、それでも、そうだとしても…………!「そうじゃない!!」って、思い込まないと、生きていけないんだ。だって、これを考え始めたら、無限に恐怖が深まるだけなんだもん。これって、気づいたら、仏教や道教の真逆を行ってしまっているじゃないか!

だから、都合よく、思い込んでしまえばいい。思い込みたい思い込みだけを、思い込めばいい。それが、この、現実世界と呼ばれる思い込みを、生きるってことだ。それに抵抗したら、底のない穴に無限に落ちる恐怖を感じることになってしまう。東洋哲学(仏教や道教)の教えを忠実に当てはめると、それらの教義とは真逆の方向に進んでしまう。つまり、その教義すらも、思い込みだったんだ。

とりあえず、今は、生きてるっていう思い込み(この宇宙のただの夢)を、思い込みのままにしておこう。

哲学って、本当に深淵だな。ま、そういう哲学があるってことが、思い込みなんだけどね。そしてそういう思い込みがあるっていうのもまた、思い込みなんだけどね。(以下略)

ちなみに、お気づきだろうか。「そうした恐怖も生きている限りは完全に消えることはない」「現にそうやって恐怖の妄想をしてしまうことからは逃れられない」って書いたけど、もしかしたらこれも思い込みかもしれないということに…………!!!(最後は希望で終わっておきたいじゃん? 都合よく思い込もうぜ!)

哲学を科学に適用すると?

ちなみに、これを科学に適用すると、万物は、人類の思い込みの可能性が高いのか、思い込みじゃない可能性が高いのか、を確率的に記述することになる。いや、というか科学そのものが、そういう学問である。

「火に身体が触れたら火傷する」という現象を、人類は 100 億回経験した、あるいは観測したからといって、100 億 1 回目も必ずそうなるということは証明できない。それこそ、思い込みである。しかし、確率的に言えば高精度なので、特にそうしたい理由がなければそうしないほうがいいに決まっている。でも、もしリスクを取ってでもなにかしたいことがあるなら、それは気にせずやったらいいってことだ。だって、それをしたらなんかヤバいことになるっていうのも「思い込み」なんだもん。

もっと言えば、そのヤバいことだと思っていることが実際に起きても、それで不幸になるっていうのも「思い込み」だからな。だから、すべては「思い込み」の可能性の中にあるってこと。もしかしたら、100 億 1 回目は火傷しないかもしれないじゃないか。それが『無限の可能性』ってやつだ。それを心から信じられるかどうか(思い込めるかどうか)で、この偽りの生(現実世界と呼ばれる妄想)を楽しめるかどうかが決まる。

⚠️ あー、あの、一応、本当に念のために言っておくけど、100 億 1 回目に火傷しなかったところで「だからなに?」って感じなので、それだけは真似しないでね笑。火傷してもぼくは責任取れないし、「100 億 1 回目の俺は火傷しなかったぜ!」って自慢したくても、「偶然じゃね?(なにかの前提条件が抜けているんじゃね?)」って思われて誰からも信じられないか、承認欲という思い込みでそうしたいと脳が錯覚している(「本当にそうなって『大発見!』ってなって、もてはやされると幸せになれるかも!!?」っていう脳の妄想)かのどちらかだと思うので。まあそれすらも思い込みで、本当に、本当にそれで幸せになれる可能性だってゼロじゃないけど、ぼくは責任は取らないよ笑。自由であればあるほど、自己責任の範囲は拡大するからねえ(サルトルの『自由の刑』)。

こぼれ話

ちなみにこの記事のタイトルは、『我思う、しかし我なし』にしようか迷ったんだけど、どっちが良かったかな?笑 サムネイルにぶち込んだ。

This post is licensed under CC BY 4.0 by the author.