悟りとか、ないから。
入鄽垂手的な何か、あとニート脱却とか
自分で自分に幻術をかける
『この世界は、幻想。偽りの生を与えられているだけ。そうだとしても、そうじゃないと思い込むことが『生きる』ということ。』の続き。書き足りなかったので、追加でつらつらと書いていく。
上記の記事を書き終わって投稿したあとも、やはり巨大地震や死の恐怖は消えていない。というか、今まで仏教とか東洋哲学をまったく知らなかったときでもこんなに恐怖を抱いたことはないのに、むしろこういうことを哲学しちゃったがゆえに、恐怖がますます増える結果となってしまった。仏教の教義とは真逆のことが起きている。
そして、これを書いて、結局、信じたい思い込みを信じればいいっていうふうに結論づけたあと、ものすごく身体が軽くなった気がした。なんだか妙に身体がふわふわしていて身体の実感を得づらい。「体が軽くなる」って、なんだかいいことのようにも思えるけど、あまりにも軽くなりすぎて、このまま天に召されてしまうかのような感覚なので、どちらかといえば怖いという印象のほうが強い。このまま抵抗せずに天に召されてしまうことを受け入れることが、本当のニルヴァーナ(涅槃)だと思えてしまうような感じもする。いや、さすがにそれだと本当に死んでしまうからダメだ、と抵抗するのは、「生きること」そのものが、ブッダのいう執着に該当するって解釈もできるから、「執着を手放して、死を認めましょう」っていう結論も導き出せてしまう。まあ、これがこの宇宙の幻、つまり、『ぼく』という意識が見る夢なんだとしたら、はじめから「生きている」ということそのものが偽りで、本当はある意味ではもう死んでいるのかもしれないわけで…………。
でも、どれだけ考えても、やっぱりどれも証明も検証も不可能な思い込みでしかない。確かめるなら、実際に死んでみるしかないが、それはこの現実世界の一般的な解釈からすれば、ただの自殺になってしまうわけで、また、この現実世界がやっぱり正しいと仮定すれば、仏教は自殺をも認めたかのような解釈ができてしまい、さすがにありえんだろ、ってなるわけで…………。でもそう思うなら、やっぱりこの現実世界が虚構なのかもしれなくて(『ぼく』という意識が見る幻かもしれないわけで)…………。
梵我一如(『ぼく』という意識 = この宇宙)がこの宇宙の真理なら、仏教の教えが実は思い込み(般若心経にもそんなようなことが書かれている)で、あらゆる苦しみから解放されるのは、やっぱり死ぬときしかないんだと認めてしまったら、この宇宙の真理を完全に理解してしまった(そういう思考を生み出すように脳の特定部位に電流が流れた)次の日に、この宇宙が崩壊し、『この肉体』が死を遂げる可能性だって(カオス理論に従えば)あるわけだが、それが次の日ではなくて 50 年後の可能性もあって、そうなると、「もはやただ寿命で死んだだけじゃね?」っていう可能性のほうが一般論としては現実的なので、もはやどっちも思い込みでしかないし、真実を知るすべはない。
じゃあ、もうどうしようもない。まあ放っておいたって、いわゆる『常識』ってやつで解釈するなら(哲学をいったん忘れるなら)、どうせ人間、いつかは死ぬのである。どうせ死ぬなら、自然に死ぬその瞬間までは、都合の良い思い込みをしたほうが楽だってことくらいしかわからない。もうここまで考えてしまったら、ここまで哲学してしまったら、すべては思い込みの域を出ないけど、その中で自分が楽になれる、幸せになれる、悩まない、苦しみを感じない思い込みをするしかない。思い込みだと分かっているもなにも、思い込みじゃないと断定できるものが何一つないのだから、もうどれかを思い込むしか生きるすべがないのである。だったら、怒りや恐怖や不安や悩みを生み出す思考や出来事は思い込みってことにして、楽しいと思うことや幸せを感じることは思い込みじゃないって思い込むしかない よね。
つまり、「お金や将来が不安だ」って思ったり「巨大地震や死ぬのが怖い」って思ったりしたら、「それは思い込みだ!」って思い込めばいいし、「未体験のこと(バンジージャンプとか?)は怖いけど、体験してみると楽しいよ」っていうのが思い込み(落下する恐怖を味わうだけ)だと思ったら、「それは思い込みじゃない!」って思い込めばいいってことだ。その結果、本当に落下する恐怖を味わうだけだったとしても、そう思ったことも実は思い込みだ(だいぶ長いこと年月が経って、あのときのバンジージャンプ、怖かったけど、怖かったという体験も含めてやっぱりいい思い出だったな〜って思うかもしれない)と思い込めばいい。究極的に都合よく解釈して本気で思い込んでしまえば良い。
NARUTO って仏教・道教じゃない?
余談だけど、これって「都合の悪いことだけ夢にして、都合の良いものは現実のままにする」っていう感じに似ていて、なんか NARUTO のイザナギみたいじゃないか? そう考えると NARUTO ってめっちゃ仏教・道教っぽいな。ナルトと九喇嘛(九尾)の関係も、最初はナルト自身が憎しみを感じて九喇嘛と同化することで勝手に尾獣モードにさせられてしまい(憎しみに支配され)、そのあとは憎しみは悪の元凶として九喇嘛を遠ざけて(憎しみに抵抗して)、最終的には仲良くなる(憎しみ(があること)を受け入れる)っていうのは、九喇嘛を憎しみという比喩として考えると、めっちゃ納得できる(NARUTO をよく知らない人はごめん 🙇♂️)。
秘密仏教が秘密である理由
仏教の宗派に『密教』っていうのがある。『秘密仏教』の略で、文字通り、その詳細は、秘密である。密教の存在自体はネットで検索すればいくらでも出てくるんだけど、なにがどう秘密なのかも含めて、教義も実態も秘密なので、一般人にはほぼ何も分からない。
だけどさ、なんか思うのは、ぼくがこうして哲学に関する記事を書いていて、どうやってこの感覚になっていったかっていう過程を、今までわりとつぶさに記録していったつもりだから、それを読めば、「あー、悟りって、そういう感じね」ってなりそうなものである。
しかし、悟りという言葉が示すように、いくら言葉で理解しても、実際に体験しなければ悟ったことにはならないのだ。文章を読んで何を言っているかを言語学的に理解しても、「まあ、そういう考え方もあるよね」で終わってしまったら、それは悟ったことにはならないのだ。
そうだとすると、結局は体験するしかないんだけど、ぼくがこうやって体験したってことを書いてるのに、それをしっかり読んでも同じ感覚にはならないっていうのは、つまりそれを先に言葉で知ってしまうから、なんじゃないかって思った。
これはたとえるなら、なぞなぞを解くのに似ている。なぞなぞを解く楽しみや解いたあとのすっきり感を体験したいなら、答えを知らない状態でその謎を実際に解こうとする必要があるのは誰でも納得できるだろう。先に答えを誰かにネタバレされてしまった状態で、楽しめるかって言ったら、まあ楽しめないだろう。
物語においてもそうだ。映画やドラマは、「この先どういう展開になるんだろう?」という「わからなさ」があるからワクワクするのであって、「実は主人公は最後に死ぬんだよ」とかって友達から聞いてしまったら「おい! ネタバレすんなよ!!」ってなるじゃん。
たぶん、密教が秘密であるのって、そういうことなんだと思う。悟りを開く方法を、悟りを開いた人から聞いてしまったら、もうその人はその方法では悟りを開けないってことなんじゃないか? 瞑想とか坐禅みたいな修行タイプの方法ならともかく、禅問答(公案)のような閃きタイプの方法は、「結局それって何のためにやってんの?」ってことを知っちゃったら、もうやる意味がない(悟りは開けない)っていうことだ。
ちなみに禅問答(公案)っていうのは、いわゆるなぞなぞのことで、代表例として「両手を叩くとパチンという音が鳴る。では、片手で叩くとどんな音が鳴るか?」というものがある。ちなみにこれの答え、っていうか、「(悟りを開くために)なんでそんなことするの?」という疑問の答えは、ネットで調べればすぐに出てくる。だから、禅問答をぼくが作ろうと思えば、いくらでも作れる。
でも、現代においては情報がいくらでも手に入るから、この方法で悟りを開くことは、現代人はほぼ不可能だと言える。当然のことながら、ぼくも先にこれを知ってしまっているので、もはや禅問答で悟りを開くのは無理だった。というかはじめから試していない。「ふむふむ、そういうことか」と本で読んで知識を得ただけで終わってしまった。というかそうならざるを得なかった。
密教が禅問答と同じかどうかはさておき、この手のタイプの宗派なのだとしたら、秘密にしておく理由は納得できる。勝手に情報を広められてしまっては、悟りを開きたい人の迷惑になるからだ。ある映画の公開初日に、その映画の最後のオチを SNS で拡散するようなものである。
まあとはいえ、秘密である以上は、なんで秘密なのかもわからないから、これも結局は憶測というか思い込みなんだけどね。
ただ、少なくとも禅問答がそうである以上は、ぼくが『この世界は、幻想。偽りの生を与えられているだけ。そうだとしても、そうじゃないと思い込むことが『生きる』ということ。』やこの記事で書いているような、「すべては思い込みだけど、思い込みたい思い込みを、恣意的に思い込めば良い」っていうぼくが至ったこの発想は、これを読んでしまった読者のみなさんには気の毒だが、もうこの方法で悟りを開くのは無理なのかもしれない。言葉で知識を得ても、理論を学んでも、体験しないと意味がないものは、知識を得ることそのものが体験を阻害する恐れ があるのだ。答えを知らない状態でなぞなぞを解いたり、結末を知らない状態で映画を観たりしないと、体験が悪くなるのと同じように。
幸せは、もしあるとしても、認知できない
これって、理論や哲学をこねこねしている間(考えている間)は幸せは訪れないんだよね。だって、こんなこと考えてたって、すべては思い込みかもしれないっていう無限ループにハマるだけで、いつまで経っても怖いままなんだもん。
だから、たぶん、この理屈に気づいた上で、まあ結局なにを考えても無駄だよな、ってなって、この思考から離れたときに、勝手に幸せになっているんだと思う。幸せというものがもし存在するなら、こういう哲学的・仏教的・道教的な考えに囚われていないときにやってくるもので、やってきたことにすら気づけないんだと思う。幸せって雲をつかむようなもの なんだ。
本当の幸せは「今が幸せだ」って認知することもできないんだと思う。もし認知できたら、それは思い込みなのかもしれないし、そもそも幸せなんてものがあるってことも思い込みなのかもしれない。だからこそ、もしあると仮定するなら、認知できないものこそが、幸せなんだと思う。もしかしたら、あのとき楽しかったなーってあとから振り返ってそう実感できるものを、我々は幸せと呼んでいるのかもしれないな。
たとえるなら、眠りに落ちる瞬間のようなもの。電気を消して布団に入って、睡眠状態に入るその瞬間って、認知できなくない? 認知できる人っているのかな? 身体が温かくなってウトウトして、もうすぐ眠れそう、意識が薄れてきた、っていう感覚までは認知できるけど、意識がなくなるその瞬間を捉えるのって、できなくない?
なんか幸せって(もしあるなら)それに似てる気がする。本当に楽しかったときって、その瞬間に「楽しい!」って認知できていないんだよね。それにのめり込んでいて、楽しいと感じることすら、忘れている。あとから振り返って、「あのとき楽しかったなー」って思えるだけ。そういう体験を、人生の中で連鎖させられると、人はそれを「幸せ」って感じるのかもしれない。楽しくやろうと思って楽しくなることに神経を向けている間は、本当の意味では楽しいわけじゃないってことだ。
入鄽垂手?
今ある恐怖も、ずっとあるとは考えづらい。これから死ぬまでずっとこの恐怖がまったく消えない(絶え間なく続く)というのは、可能性としてなくはないが、確率が低い。つまり、思い込みだ。だから、今後もしばらくは考え続けちゃうかもしれないけど「こんなこと考えてもしょうがねえ! 結局ぜんぶ思い込みなら、何も変わらねえじゃねえか! 何もわからないじゃねえか!」ってなって、この哲学の思考から離れて、またいつものような日常生活に戻っていくことだろう。
それは、ある意味では、また悟りを開く前の状態に戻るってことでもあるのかもしれないが、悟りを開いた(これが悟りって思うのも思い込みかもしれないけど、なんかもう思考が行くところまで行ってしまった)結果がこれ(恐怖の無限ループ)だったから、悟りを開いたら苦しみから解放されるってことが思い込みだったとも言える。
なら、もうそんなこと考えないで、ただ自分がそう思いたいように思い込めばいいよね(そう思いたくないものは「そうじゃない!」って思い込めばいいよね)。些末なことに怒りや苦しみを感じたりしたら、梵我一如(この宇宙の正体は『ぼく』という意識であり、ぼくが見る夢である)が真実かもしれなくて、そんな感情も脳が見せる幻だからくだらないって思い込めばいいよね。楽しいことややりたいことが出てきたら、そのときだけ都合よく、現実世界のいわゆる『常識』を適用して「これは思い込みじゃない! 実際に楽しいものなんだ!」って思い込めばいいよね。悟りを開く前のような状態に戻ってもいいよね。もう悟りを開くとか、すべての苦しみから解放されるとか、そんなこと、どうでもいいよね。
さーて、これからどうしましょうかね。ニートで暇だからこんなこと考えて虚無ってる(虚無ることができている)わけだし、とりあえずまた仕事でもしましょうかね。仕事はつらいものっていうのも思い込みかもしれなくて、実は楽しいと思っていたときはあったんだよね。交友関係が少ない自分にとっては、職場の人間関係って、けっこうありがたいものだったりするし。ちょうどエージェントの方とこれから面談をする予定もあるし。まずは、そこから始めよう。
