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悟りの境地とは、底のない穴に無限に落下するかのような恐怖と孤独と絶望の世界(((という思い込み)という思い込み)という思い込み)………………

やまない雨はない

悟りの境地とは、底のない穴に無限に落下するかのような恐怖と孤独と絶望の世界(((という思い込み)という思い込み)という思い込み)………………

⚠️ 今回のこの記事、自分で書いていて、本当に怖かったので、閲覧注意です。自己責任でお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

👇 の続きです。

絶望の淵

結局、すべては思い込みだった。この宇宙も、この肉体も、この思考も、この感情も。何も結論づけられるものがなかった。悟りの境地に達したら、幸せになれるのだろうと思って、仏教の教えに従っていたら、何も信じられない絶望の淵に立たされた。まるで、底のない穴に無限に落下するかのような、尋常じゃない恐怖と孤独と絶望を感じるだけ だった。

すべて思い込みなんだから、悟りの境地なんてものがあるってことも、思い込みだったんだ。なんか少しずつ安心できると思ったら、急に奈落に叩き落とされた。どうがんばっても、恐怖や不安は消せないことがわかった。あらゆる苦しみから解放される境地なんて、なかった。

だって、妄想や煩悩なんか消せない。どうがんばっても怒りの感情がどこからともなく生まれてしまう。一時的に消せたと思っても、また出てくる。それでも、これは妄想だと距離を置いて、しばらくすると、妄想や煩悩が生まれてこない時間が長くなる。それを続けていると、次第に身体の感覚もなくなり、自分(この肉体)がここにあるという実感もなくなっていく。

最後に残るのは、呼吸の感覚。鼻腔を抜ける風の感覚。肺が膨らんだり縮んだりする感覚。それすら消そうとすると、呼吸ができなくなる。それを続けると、おそらく死ぬ。だから、やめる。すると、身体がとても軽くなることに気づく。まるで天に召されるかのような軽やかさがある。でも、本当に天に召されてしまいそうになるから、怖くなって現実世界を強く意識する。そうしてまた日常に戻ると、また妄想や煩悩が生まれる。

あらゆる苦しみから解放されるには、死ぬしかない。悟りの境地がもしあるなら、それは死ぬってこと。執着を手放すというのは「生きたい」と思うことすらも手放すということ。絶望。

こんな絶望はあまりにも怖すぎる。認めるのが怖い。でも、どうせ人間いつか死ぬなら、そして、死ぬと悟りの境地に達するなら、自然に死ぬまではとりあえずこの絶望からいったん距離をおいて、また日常に戻ることにした。

そしたら、今まで感じていたこれらの恐怖を感じなくなる代わりに、また今までのように友人から言われた一言に対する怒りの感情や、この世の中に対する不公平による不満や、仕事をすることで好きなことをする時間が減ってしまうイライラが生まれる。結局、なにも変わらなかった。悟りの境地に達したくてそこに足を踏み入れたら、無限の恐怖に飲み込まれて、怖すぎて戻ってきた。悟りを開く前となにも変わらない。悟りとか、なかった。ネガティブな思考から離れたら、また別のネガティブな思考が生まれるだけだった。

でも、少なくとも、怒りの感情に支配される思考が思い込みだって思ったら、徐々に心が軽くなっていく。そうして、苦しみがある中でも、少しだけマシにはなっていく。しかし、そうやってあらゆるものが思い込みだとして、ある程度のところまで行くと、やはりとてつもない恐怖が襲いかかってくる。今後、これを人生の中で繰り返していくのだと思うと、結局、生きている限りは苦しみから解放されることなんてないのだと思ってしまう。

アカウントのユーザ名を統一したいけどできないという無限ループ

東洋哲学も仏教も道教もなにも知らなかったとき、これとよく似た現象を体験している。ぼくはネット上のサービスのアカウントのユーザ名にとてもこだわっていた時期があって、すべてのサービスのアカウントのユーザ名を統一したいと思っていた。しかし、特に Twitter (X) などは、競争が激しく、所望のユーザ名は取れなかった。そのため(統一するため)にユーザ名をすべて変えるのは負けた気がする。いや、というより、サービスによっては最初に一度決めると、もう変えられないものもある。そうなると、もうそれを遂行するためには、アカウントを新しく作り直さないといけなくなる。今までのデータと決別して。

それはできない。単にめんどくさいだけじゃない。今までのデータと分離してしまう。しかも、もし、もし今後、やっぱりこの妥協したユーザ名が気に入らなくなったら、また同じことをしないといけなくなってしまう。そうなると、いつまで経っても愛着を持ってそのアカウントに接することができなくなってしまう。

でも、ユーザ名はこだわりたい。統一したい。でも、お気に入りの文字列はすでに取られている。妥協して変えるためにはアカウントを作り直す必要がある。でも妥協してるから、将来的にまた変えたくなるかもしれない。そしたらまたアカウントを作り直さないといけない。そしたらいつまで経ってもそのアカウントに愛着を持つことができない。だから、いっそのこと、諦めてそのアカウントのままで使い続けたい。でもこだわりたい………………。

結局、どんなに考えても、すでに取られているユーザ名を取ることができないという事実は変わらず、こだわりの無限ループにハマった。あまりにもやもやしすぎて、全然仕事に身が入らなかったのを、今でも覚えている。

風俗で童貞を捨てて良いのかという無限ループ

風俗で童貞を卒業してもいいかどうか、についても同じような現象を体験した。ぼくは現在、30 歳の童貞である。もちろんずっと前から風俗というものがあるというのは知っていた。そしてあるとき、会社の同僚と雑談をしていたときに、風俗の話になった。いろいろ話を聞いた。

彼女を作って自然に卒業することしか考えておらず、でも(マッチングアプリ使っても)彼女なんかできないから、ずっと「セックスってどんな感じなのかな? 気持ちいいのかな? でも、できないよな……」って悶々としていた。だけど、風俗があったじゃないか! なにをこだわっていたんだ! これで体験してしまえばいいじゃないか! とハッとしてすっきりした気持ちになった。

でも、いざ行っちゃおうかな? と思ったら、いや待てよ。本当にこんなんで卒業しちゃっていいのか? 記念すべき最初の一回は、やっぱり自然にできた彼女とするべきなんじゃないか? 自然にできた彼女と自然の成り行きで卒業するなら、たとえそれが恍惚とした体験ではなかったとしても、それが想い出となるから後悔もない。

しかし、風俗はどうなんだ? 意図的な、作為的な、営みで、大事な一回目を終わらせてしまっていいのか? 本来なら、努力して自分磨きをしてやっと手に入れるものなんじゃないのか? こんなことで手に入れてしまっては、その結果がどうあれ、後悔することになるんじゃないか? もっといえば、これでもし、実際にお店に行って会ったときの相手が、思った感じの人じゃなかったら、余計に後悔することになるんじゃないか?

でも、そんなこと言ったって、日常的に性欲は生まれる。そのたびに一人で処理しても、またやってくる。これだけじゃ満たされないから悶々としてるのに、そんなこと考えていたらいつまで経っても童貞のままだぞ……(まあお店に行ったところでしょせんは素人童貞ではあるが……)。

性欲が生まれるたびに一人で処理することを繰り返していれば、もちろん一時的にはその欲はなくなるが、それが日常的にずっと繰り返されることになる。てことは、やっぱりどこかで我慢ならなくなってお店に行くことになるなら、今行っても同じじゃないのか? むしろそうやって悩んで先延ばしにすればするほど、こうやって悶々とする期間が増えるだけだから、苦しいだけなんじゃないのか? どうせ行くなら、早いほうがいいんじゃないのか?

でもそれって性欲があるときの決断であって、処理して性欲が収まったら、なんで風俗行きたいと思ったんだ(セックスしたいと思ったんだ)ってなって、記念すべき第一回をあっけなく終わらせてしまったという思いのほうが強くなって後悔するだろう。でもそんなことずっと考えてたら、この一人で処理してもしてもやってくる悶々とした気持ちを消すことはできなくて………………。

結局、どんなに考えても、どちらかの主張が間違っているとは言えず、執着の無限ループにハマった。まさに、これ 👉 仏教とは、セックスである

楽しいことも苦しいこともずっと続くという無限ループ

結局どれも、悟りの境地と同じだった。そんなこと考えても、結論は出なかった。悟りの境地に達しようと思っても、達することはできなかった。だって、なかったんだもん。

いや、煩悩や妄想を瞑想によって長いこと消せたけど、またすぐに生まれてしまうから意味がないっていうのが思い込みで、もっとそれを極めれば、本当に煩悩も妄想も感じなくなったとする。そして、身体もまるで浮いているかのように軽くなり感覚を失い、感情も消えたとする。それが、物理的な生のままに実現できたとしても、果たしてそれは、「生きている」と言えるのだろうか?

だって、なにも感じないでしょ? 煩悩も妄想も生まれなければ、喜びも怒りも哀しみも楽しみも感じない。常に無我になって、自分が何をしているかという意識もない。幸せも感じない。身体だけが、ただ機械的に動いている。それを「生きている」と言えるのだろうか?

つまりそれは「他人」と同じ。自我も意識もなく、ただその世界に物理的に存在しているだけ。それでいいと認めるなら、たしかに悟りの境地はある。でも、それは、やっぱり死んでいるのと、変わらない気がする。「他人」を生きているのと変わらない気がする。

主体的な意識があるから「生きている」と感じるわけで、行動のすべてが無我夢中になったら、幸せを感じる瞬間もないので、死んでいるのと変わらない。寝ている間は、別に物理的に死んでいるわけではないが、意識がないから時間の感覚もないし何も主体的な行動を取らないから「死んでいる」も同然である。それが、起きている間も(物理的に死ぬまで)ずっと続いていると考えたら………………。

「いやいや、起きている限り、意識はあるだろう」と思うかもしれないが、あなたは経験しているはずだ。ゲームがあまりにも楽しくてプレイすることにのめり込んでいるとき、意識が消えていることを。本当に楽しくて無我夢中になっているとき、「楽しい!」と思うことすら忘れていることを。

もちろんそれが終わると我に返るから、そのときのこと(過去)を振り返って、「あー、楽しかったなー」と幸せを感じる。でも、その「あー、楽しかったなー」と感じるときは思考や妄想の世界に入っているのだから、それがある限り、嫌な気分になるほうの思考や妄想も消えることはないってわけで………………。

煩悩や妄想や意識があるからこそ、楽しいことを感じたり、嫌なことを感じたりする。じゃあ、煩悩や妄想を完全に消せてしまったら、嫌なことを感じることは一切ないかもしれないが、楽しいことを感じることもないわけで…………。それって、死んでいる、あるいは「他人」を生きているのと同じなわけで…………。逆に、楽しいことを感じようとするためには妄想や意識や思考が必要で、それは同時に嫌なことも感じるわけで…………。

じゃあ、煩悩や妄想や思考を生み出す量を自由自在に調整できるようになったとして、それらを生み出す量を大きくしたら、楽しいことを「楽しい!」と感じられる総量も増えるが、嫌なことを感じる総量も増えるわけで、逆にそれらを生み出す量を小さくしたら、嫌なことを感じる総量も減るが、楽しいことを感じられる総量も減るわけで…………。

それって、すぐに死んでしまうのと長生きするのと同じ。すぐに死んでしまえば、苦しみを感じることも少ないかもしれないが、楽しみも感じることが少ない。長生きすれば、楽しいことも増えるが、苦しみも増える。結局、幸せと苦しみの比重はなにも変わってない。

この先、幸せを感じるとき、楽しいことを感じるとき、「あれ、こんなにのほほんとしていていいんだろうか?」と漠然とした不安が押し寄せて、とてつもない恐怖を感じる。でも、それは、実態のない恐怖だから、やがてそれに気づき、また安心を取り戻す。そしてまた、漠然とした不安が押し寄せて、の繰り返し………………。

あれ? ずっとこれの繰り返し………………? 悟りの境地が恐怖の無限ループなら、そこから抜け出したこの世界も、幸せと恐怖の無限ループ………………?

ん?? なんか、前にも、同じような恐怖を感じた気が…………。こ、これって、も、もしかして………………

⚠️ この先、本当に閲覧注意です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福と絶望が同じ量で未来永劫つづく世界…………

輪廻転生、なのか………………? 輪廻転生って、前世の記憶を持たないんだよな。それに、現世で苦しみが多いと、来世で苦しみが少ないとかっていうよな。もしかして、前の人生でもこんな経験をしていた? これに気づいたかどうかはともかく、楽しいことも苦しいことも経験した人生が、前にあった…………? この人生だけじゃなくて、未来永劫、これがずっとループする……………………? そして、次の人生でまたこれを忘れて、あるいはまた気づいて、あるいは気づかないまま死んで、いずれにしても楽しいことも苦しいこともある人生を、永遠に繰り返す………………? そういえば、輪廻転生って考え方も、仏教も、どちらもインド由来のものだったよな…………?

いや、考えすぎか…………。でも、死後の世界なんて、誰も知らないのに、なんでこれが考えすぎと断定できるのか…………。それこそそうじゃないって思い込んで安心したいだけなんじゃ…………?

………… どうかしている。そんなわからないことばかり考えて。だが、これはただの妄想。考えるのをやめれば、これ以上の恐怖は訪れないだろう。しかし、それはつまり、現実世界の一般解釈に戻ってきただけだろう。結局、悟っていないのとまったく変わらないだろう。梵我一如なら、この現実世界が思い込みの世界だって可能性もあるのに…………。そして、そうじゃなくても(そっちが思い込みでも)じゃあやっぱりふつうに地震や津波や病気や死の恐怖があるわけで…………。

やばい、気が狂いそうだ。また、あのときと同じ恐怖が…………。考えすぎたら、正気ではいられない。これが本当にただの思いこみで脳の中だけの妄想でも、やっぱり現実世界の恐怖は残るわけで………………。この恐怖を完全に消したら、幸せや楽しみも完全に消えてしまうわけで、そしたら死んでいるのと同じなわけで、「他人」を生きているのと同じなわけで…………。

こんなこと、気づかなければよかった…………。悟りの境地なんて、目指さなければよかった…………。知らぬが仏って、そういうことなのか…………? どんどん怖いことに気づいてくる。これが、未来永劫、ずっと続くのか…………?

仮にこれが思い込みだったとして、常識的な現実世界の解釈に戻ってきたとしても、そこにはやっぱり現実的な世界の恐怖があるのであり、この考えから逃れて安心を得たとしても、またどこからともなく怒りや不安や恐怖の感情がやってくるのであり、それすらも思い込みだとしても、実際に地震や津波や病気や死などが訪れるわけであり…………。その感情を一切消してしまったら死んでいるのと同じであり…………。この人生の中だけで狭く解釈するのか、輪廻転生のように永遠の時間として広く解釈するのかの違いなだけで、無限に抜けられない…………。

助けて、って言っても、誰も助けてくれない。どれだけ安心させてくれても、どれだけこの考えをバカバカしいと否定されても、それを証明することは誰にもできない。恐怖する方向に思い込んだらあまりにも現実離れしていてあり得ないと安心させてくれる方向に論破されるが、安心する方向に思い込んだらこの現実世界の恐怖や死からは逃れられないという絶望の方向に思考が進んでしまうわけで…………。こんなの世迷い言だから、とりあえず今は安心する方向に思い込むことにしたら、いつかものすごい恐怖に襲われるかもしれないわけで…………。それが現世で起きなかったら、来世で起きるかもしれないわけで…………。安らぎがまったくない…………。怖い。怖すぎる…………………………。

こんな恐怖の思考に支配されてしまうのは、科学的に言えば、単に寝不足やカフェインのせい(たしかに最近あまり眠れていないし、これを書く前にコーヒーを飲んでいた)だって言うことはできるよ。できるけどさ、現に、どっちに行っても思い込みの可能性を否定できない限りは、無限ループにハマってしまうわけで……………………。

こんなこと考えるのをやめれば、また安心できるよ。できるけどさ、それって都合よく安心するほうを選択しているだけで、また恐怖を感じることがある(そうじゃないと危険なことから逃れるという脳の生存本能が働かない)ってことを認めただけであって………………。

ああ、なんか、あまりに怖すぎて、身体の実感が保ちづらくなってきた。身体がふわふわする。もしかして、このままこの思考を続けたら、天に召される、のか…………? やめたとしても、物理的に死なないだけで、同じことの繰り返し、なのか………………??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことを書いているうちに、雨が降ってきた。いや、雨とか今どうでもいい…………。怖すぎる…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だれ たす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『今この瞬間』以外を考えるのが無駄

でもでもでも。こんなのどこまで考えても、結論なんか出ないんだよな。じゃあ、こう考えることはできないだろうか?

もし、輪廻転生が正しいなら、楽しいこともあるが、苦しいことも起こりうる運命が、人生を変えて、未来永劫続くことになる。そして、それは、抵抗してどうにかなるものじゃない。だから、諦めるしかない。ネガティブな感情が生まれるのも、実際にネガティブな体験をするのも、避けられない。

だが、もし、輪廻転生がただの世迷い言だと断定するなら、こうしてこんなことを考えて恐怖を自ら感じに行っているのが無駄だってことになる。なぜなら、楽しいことがある分、苦しいこともあって、それが未来永劫続く、っていうのを否定するわけだから。来世があるなんてのが思い込みなら、たとえ今のこの人生のこの先に苦労が待ち受けていたとしても、今この瞬間をどう楽しく生きるかを考えること以外は、すべて無駄な思考だってことになる。だって、「この人生のこの先に苦労が待ち受けている」っていうのも思い込みかもしれなくて、今この瞬間をできるだけ楽しく生きるっていうのを連続で続けていって、老人になったとき、ある日ぽっくり安らかに死ぬ、っていう可能性だって否定できないからだ。てか、これは、この現実世界の常識的な解釈でも十分ありえる話だ。

もちろん、不安や恐怖は完全に消えることはないし、それを目指して仮にそうなっても、それは楽しいことも感じなくなるから、死んでいるのと変わらない。それに、ものすごく苦しいことがこの先の人生で待ち受けているかもしれない。当然その可能性だって否定できない。だけど、必ずそうなるっていうのも思い込みだし、結局どっちも思い込みだから、今あるこの瞬間を楽しく生きる以外は、考えても無駄ってことになる。

輪廻転生を仮に信じても、永久に苦しみ(+ 楽しいことも)がやってくることには抵抗はできないから、諦めてとりあえず今を生きるしかないし、それは思い込みで、やっぱりこの人生は一度きりという常識的な解釈が正しいなら、将来がどうなるかはわからないから、やっぱり今この瞬間を楽しく生きる以外に、考えても無駄ってことになる。

恐怖の思考と安心の思考が無限に続く、っていうのが思い込みの可能性は?

だいたい、人生で何度もこういった無限ループにハマっているからといって、今後も同じように思考の無限ループにハマるっていうことが、思い込みなのかもしれない。もしかしたらまたこうした思考の無限ループにハマることはあるかもしれないけど、どっかで終わる可能性もあることについて考慮してなかった。そこが「思い込み」になって、抜けていた。無限ループにハマることが、人生で何度も起きているから、それそのものが無限に続くっていうのも思い込みかもしれないってことを、考慮していなかった!

この思い込みは、こうやって何度も思考を重ねて怖い思いをして、そこから抜けたらまた世俗の怒りや不満の感情などが生まれる、っていうのを、ここ最近ずっと繰り返しているから、それ自体が無限に続くっていう拡大解釈をしていたのだろう。無限ループにハマることが今後の人生でまたあったら、それは単に、「お前まだ単純に悟ってないだけなんじゃね?」っていう可能性を考慮していなかった! だって、「悟った」って、本人の主観だから、本当に悟ったかどうかなんて、わからんじゃんね? 何度同じことを経験したからといって、その次が、あるいは次の次も、次の次の次も、、、ずっとそうなるって、それこそが思い込みじゃんね?

瞑想や座禅だって、何時間続けたら悟れますとかってないもんね。しかも、悟ったからといって、すべての煩悩や妄想が完全に消えた状態がずっと維持できます、ってこともないもんね。どれだけ筋トレしてムキムキになっても、しばらく筋トレしなかったら筋肉が衰えるのと同じだ。

「幸福と絶望が同じ量で無限に続く」っていうのも思い込みかもしれないじゃんね。もちろん、このままここで安心して何もしなかったら(瞑想とか坐禅も完全にやめて、不幸を感じたときにそれが本当に不幸なのか、思い込みじゃないのか、って考えることをやめたら)また怒りや不安や恐怖が生まれてくるのは当たり前の話だ。だって、脳ってそういう仕組み(生存本能)なんだもん。そして、怒りや不安や恐怖を完全に消そうとしたとき、つまり安心しきったとき、どこからともなく恐怖が生まれてくることがあるのも当たり前の話だ。だって、脳ってそういう仕組み(生存本能)なんだもん。

だけど、少なくとも、「幸福と絶望が同じ量でずっと続く」っていうのは思い込みの可能性が高い。精神修養を長く続けていると、それだけ幸福感を感じやすいっていうのは、科学的にも証明されている。これを思い込みって思っても、そうじゃないほうも思い込みってことになるから、結局どっちでもいい。信じたいほうを信じればいい。

禅問答と中道に関する気づき

なんだか、自分で禅問答を作って、自分で解いたかのような気分だ。禅問答を解いたときのすっきり感って、こういうことか? NARUTO でたとえるなら、サスケとイタチがお互いに幻術をかけあって幻術の無限ループに入って、お互い一歩も動いていないような状態から抜けた感じ。

あと、ブッダの説いた中道って、こういうことなのかな。「こうだ!」って思うのも、「こうじゃない!」って思うのも、どちらも思い込みで、可能性の域を出ないんだけど、どっちかの思い込みが強すぎると、こうした果てしない恐怖を感じてしまったり、途中まではうまくいっていても、そうじゃない現実にぶち当たったときに大きな失望感になったりするんだろうな。「明日死ぬ!」って本気の本気で思い込んだら、そりゃ怖いだろうし、この宇宙には自分独りだけで、感情や意識のない人間の振る舞いをした有機物しかない っていう仮説だけを本気で信じ込んでしまったら、そりゃ孤独感で押しつぶされるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、雨が止んだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思考や感情は天気のようなもの

雨だって、ずっと降り続けることはない。いつかは止む。でも、ずっと止み続けているわけではない。いつかはまた降る。梅雨の時期のように、しばらくずっと降っていることもある。「このまま降り続けちゃうのかな……?」と不安に思ってしまうようなことは、あるかもしれないけど、実際にはそうはならない。

晴れを増やして雨を減らすことはできないけど、雨が降っているときに「嫌だなー」って思うことを減らすことはできる。「嫌だなー」って完全に思わなくすることもできないし、そこまでする必要はない。でも、減らしたり、「嫌だなー」感を弱めることはできる。人生って、そんなもんだ。

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