どうすれば幸せになれるのかを考えるのをやめれば幸せになれる(かも)
幸せになりたければ幸せになろうとしてはいけない。
西洋哲学もおもしろい
東洋哲学に続き西洋哲学にも興味を持った。ちょうどヒュームやカントの哲学の基礎を学んだのだが、これは人類全体にとってではなく、人間同士の間ですら違う世界を見ているんだから、完全に同じものを共有することは不可能だなと思った。
見ている世界は同じじゃない
生まれつき目の不自由な人がいる。その人たちと、そうじゃない人たちでは、みている世界、認識している世界、感じている世界が異なるのを理解するのは、それほど難しくはないだろう。
しかしぼくたちは往々にして、目が不自由でないなら、見ている世界は同じである、と思い込みがちである。世の中には、「色を感じる細胞」の働きが生まれつき弱く、「新鮮な赤身肉」の「赤」と「時間が経過して腐りかけている赤身肉」の「赤」の違いを色として識別できない人がいる。
同じものを、目で「見ている」はずなのに、「これは腐りかけているね」が共通認識にならない。自分の目で見て判断できないのであれば、判断できている(と思われる)人の言うことを信じるか、本当にそうだろうか? と疑うかのどちらかしかない。
もっと言えば、それを見て「どう思っているか? なにを感じているのか?」まではわかりようがない。異性が腕まくりをしているのを見て、なんとも思わない人もいれば、上腕が裸になったように見えて「エッチだ……」と思う人もいるかもしれない(いわゆるフェチというやつ)。たとえば 2 人の男性が 1 人の女性を魅力的だと思っていたとして、どちらも相手の女性を魅力的だと思っていたとしても、その女性が腕まくりをする様子に関しては何も思わなかったりエッチだと思ったりする。
聞こえている世界は同じじゃない
視覚だけでなく聴覚に関しても同じことが当てはまる。当然のことながら、人によって聴覚の能力に違いがあるし、年齢とともに聞こえる周波数(ヘルツ)は一般的に(医学的に)狭まっていくので、人によって店の前のモスキート音が聞こえたり聞こえなかったりするというのはわかりやすい。
しかし、聞こえていたとしても、それをどう捉えているかは共通しているとは限らない。有名な例では、鈴虫の音は日本人にとって情緒的に受け取ることのできる秋の風物詩となるが、外国人にとってはそれはただの虫が発する雑音でしかない、というもの。
もちろん日本人の中でも雑音だと感じる人もいれば、外国人の中でも風情があるなあと思う人もいるだろう。それにそもそも日本人だけとは限らないかもしれない。しかしいずれにせよ、同じ音を聞いているにも関わらず、それを「虫の声」と認識する人もいれば、「虫の発する雑音」と認識する人もいるのは事実だ。
であるなら、同じ音を聞いても「良い音色だ」と思う人もいれば「うるせえな」と思う人もいるわけで、「良い音色だ」と思っている人のほうがストレスを感じずに生きられるのは容易に想像できる。
だからといって「うるせえな」と思っている人が急に「良い音色だ」と思おうとするのは難しいかもしれないが、少なくともこういうマインドセットを持つことで、精神的負担は軽くなりそうな気がする。
なにが幸せかは同じじゃない
そう考えると、自分が「当たり前だ」と思っている、「普遍的に見える事実のようなもの」は、実はただの思い込みに過ぎず、今までの人生の経験を通して判断した産物に過ぎないのだということを、改めて深く実感するきっかけだとなった。確実に見えているもの、確実に聞こえているものですら、人によって認識が違うのだから、まして「どう思うか」や「どう感じるか」、もっといえば「なにが幸せか?」なんてのは、絶対的なものではないのだと。
科学や数学は宇宙の真理を証明できない
とはいえ、赤身肉が青色に見えてしまう人や、鈴虫の鳴き声が救急車のサイレンの音のように聞こえる人は、(もしかしたら世の中にはいるかもしれないが、一般論あるいは数としては)基本的にはいないので、どのような人生を歩んでいても、どのような地域に住んでいても「まあだいたい共通しているよね」という人類のざっくりとした共通認識があるのは納得できる。
それを軸として科学や数学などの学問体系が確立したのだが、それもあくまで「ざっくりとした共通認識」が「ある」という前提にたって築き上げられてきたもので、絶対的な真理を物語っているとは限らない。たとえば科学では因果関係が「ある」という前提にたって研究が進められているが、因果関係が「ない」のであれば、どれだけ科学的に正しくても、それは宇宙の真理ではない可能性がある。そしてそれを証明することもできない。科学が宇宙の真理に到達できない(少なくとも達したことを証明することは絶対にできない)理由はそのためだ。
少し前に「科学を信じれば信じるほど幸せからは遠ざかる」という記事を書いたが、この記事を書いた時点ではまだ西洋哲学(ヒュームやカントの哲学)は知らなかった(西洋哲学という存在や彼らの名前くらいしか知らなかった)。ヒュームの哲学を知る前にヒュームと同じ結論をこの記事で導き出していたわけであるが、東洋哲学の中核的な概念はこの記事執筆以前にすでに知っていたので、そこから考えれば同じ結論にたどり着くことは決して不思議なことではないなと思った。ベースとなる考え方があれば、偉大な哲学者と称される人物と同じ結論を導き出せるのは興味深いなと感じた。
哲学に見る人生訓
さらに踏み込むと、「ここから何を教訓とするか?」が異なったのが、西洋哲学と東洋哲学の違いなのかなと思った。「だからこそ、人類にとって絶対的に正しい真理とはなにかを知るためには、さらに研鑽を積み考えて考えて考え抜くことが大事なのだ」と唱えた西洋哲学と、「人それぞれ何が正しいかなんて違うのに(絶対的な正しさはないのに)、それを『これこそが正しいのだ、だから人間はこうするべき、世界はこうあるべき』って考えちゃうから苦しむんだよ。苦しみから解放されるには、すべて思い込みであることを認めることが大事だよ」と唱えた東洋哲学の違いなのかなと思った。どちらも理論的には同じ結論に達しているが、そこから学ぶ教訓が違ったのかもしれない。
哲学、面白い。今まで科学絶対主義だった筆者にとって、哲学との出会いはかなり衝撃的だった。今まで絶対視していた価値観が根本から崩れ去るのをこの身で直接体感した。これも想像(思い込み)でしかないけど、今まで神様という存在がいて、超自然的な現象(まだ科学の「か」の字もなかった古代の人々にとっての地震や雷など)はその神様が起こしているんだよ、というのが本気で信じられていた時代に「いや、神なんかいねえから」って言われたときの衝撃って、こういう感じだったんだろうなーと思った(もっとも「神がいない」ということを証明することもできないのだが)。
それと同時に、現代では当たり前のように信じられていることを疑うのって、こんなに難しいものなんだなと思った。だって、「もしかしたら地球は球体じゃないかもしれないじゃないか!」って今言ったとしたら、確実にコイツやべえやつだなってなるじゃん。でも、「絶対に地球は球体だ、これは宇宙の真理であり絶対に覆らない」と言い切れないのもまた事実。だって、それは三次元空間しか認識できない人間の範囲内でしかなく、もし人間が認知できない感覚器官を持って地球を観察したら、地球の周りにもやもやとしたものがあって、それは球体じゃなかった、っていう可能性だってあるわけで……。
何が本当かなんて知りようがない(というかそんなものはない)んだから、(哲学すること自体が楽しい場合を除き)そんなことにこだわってないで、今の自分が幸せに感じることだけをやっていればそれでいい……、人生ってそんなもんなんだろうなーって思った。
なんか言葉にしちゃうとすごくチープだな……。お前の文章能力がないだけだろって話なのかもしれないけど……。でも、これを実感すると、生きることが楽になるのはたしかだ。
