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仏教とは、セックスである

セックスを実際に経験してはじめてセックスを知る

仏教とは、セックスである

罰当たり? 否!

筆者がこの記事のタイトルを、恐れもせず堂々と言い放つことができる理由……

それは、「そんなことを言ったらブッダ(お釈迦様)に怒られるよ!」とか「神聖な宗教に対してそんなことを言うとは罰当たりな!」とか言うヤツは、仏教を何一つ理解していないからである。筆者はそれを完全に理解したからこそ、堂々と言うことができる。仏教は、セックスだ と。

セックスって『知ってる』?

みなさんは「セックス」という行為を知っているだろうか?

「そんなの誰でも知ってるよ、子どもじゃあるまいし」

と思うかもしれない。しかし、中にはこういう人もいるだろう。

「ぼく(わたし)はセックスを知りません。なぜなら童貞(処女)だからです」

もしそう思ったのであれば、そしてまだ悟りを開いていないのであれば、あなたが悟りを開くのはそう難しいことではないかもしれない。なぜなら、それこそが仏教(東洋哲学)の本質だからだ。

これはつまり、論理的に言葉で解釈すると以下のようになる。

大人であれば、「セックス」という行為がどのようなものであるかを言葉(分別智)では誰でも知っている。しかし、大人でも実際にはセックスをしたことがない人もいる。つまり、実際に体験(無分別智)したことはない人は大人でも存在する。

言葉の定義として、前者を「知る」と表現するのであれば、セックスを「知らない」大人は(おそらく)いないだろう。しかし、実際の体験を伴ってはじめて「知った」と定義するのであれば、セックスを「知らない」大人はこの世の中に存在する(筆者がそう)。

後者の、体験によってはじめて「知る」ことを、日本語では「悟る」というのだが、そんなことはどうでもいい。どこまでいっても言葉は言葉であり、言葉でどんなに理解しても体験しない限りは絶対に得られない「本質」があるからだ。

実際にセックスをしたことがある人ならこれの意味がよくわかるだろう。いくらセックスとはこうこうこういうもので、こうするとより快楽が得られるようになる、という知識を身につけたところで、実際に体験しない限り、その人は本当の意味でセックスの(あの?)気持ちよさを理解できないのである。

体験的理解を行うための組織

仏教(東洋哲学)もまたしかり。東洋哲学や仏教に関する情報は、ネットの記事や本を見ればいくらでも得られる。しかし、「悟りを開く」とは何たるかを、いくら言葉(分別智)で理解し知識を身につけたとしても、「あー!!! 人生(の苦しみ)って、そういうことだったのか!!!!」と頭の中で強烈な「体験」(無分別智)をしない限りは、悟りを開くことは絶対にできない。

そして、厄介なことに、そうであるがゆえに、これを言葉で表現してすべての人に理解してもらうのは不可能なのである。仏教とは、体験的理解をしてもらうことを目的に作られたものであり、ときには非科学的なことやウソや矛盾を(わざと)言ったりする(ウソも方便)。

しかし、だからといって「仏教はしょせん宗教だ」とか「非科学的でオカルトめいたものだ」と判断したら本当の意味での仏教は絶対に理解できない。逆に、仏教で言われていることをすべて真に受けて、敬虔なる信者になったからと言って「真理」を理解できるとも限らない。

もっと言えば、真理を理解できてしまうなら、入信しなくても、戒律を守らなくても、お釈迦様を拝まなくても良いのである(事実、ブッダはそういった神秘的なものを否定していたらしい)。

どうやったら悟りを開けるの?(どうやったらセックスできるの?)

セックスによる快感(悟り)は、実際にセックスをしないと得られない。であるならば、仏教とは「どうやったらセックスができるか?」を当時のブッダの弟子たちに教えることを目的としており、それを言葉にしたものが経典であったり書物として残っているのである。

そしてこの、「どうやったらセックスができるか?」はもちろん人によって異なる。まず、生物学的に、というか言葉の定義的に(一人ですることや想像の中ですることを「セックス」とは言わないという前提があるなら)パートナーがいないことには始まらない。そういう意味では、まずパートナーを見つけることが第一であることに異論はないだろう。

では、そのパートナーを見つける方法は如何に? 職場に異性がまったくいない人に向かって「社内恋愛がいいよー」とか言ったところで何の意味もない。スマートフォンを持っていない人、あるいは使い方を知らない人(が現代にどれくらいいるのかは不明だが、それはともかく)に対して「マッチングアプリがおすすめだよー」とか言っても実践できるはずもない。

だからブッダは、それぞれの人に対して合う「悟りの開き方」を説いていた。先の例で言うなら、ある人には社内恋愛をすすめたかもしれないし、ある人にはマッチングアプリをすすめたかもしれない。

その「こうすればいいよー」の部分だけを、万人に当てはまる「事実」として解釈してしまうのなら、当然「矛盾」が存在することになるだろう。しかしそれは本質ではないのだ。目の前にいる「その人」が目的を達成しさえすれば、ブッダにとってはそれで OK だったのだ。

⚠️ 「セックス」っていう強烈なワードに加えて「そのためにはまず相手が必要で……」っていう説明の仕方をしてしまったので誤解のないように念のため言っておくが、社内恋愛やマッチングアプリを、セックスをする目的で始めること(いわゆるヤリモク)を推奨しているわけではないことだけは強く念押ししておこう。

なぜ不幸になるのか

ほとんどの人間にとって、セックスは文字通り「やりたいこと」である。そうであるがゆえに、その「セックス」という行為にトクベツな価値観を見出すからこそ、それができないことに対して自分の容姿や境遇を嘆き、不幸を感じるのである。しかし、それは幻想である。

たとえば、昔の人はトマトを食べなかった。なぜなら、悪魔の実だと思われていたからだ。つまり、トマトには毒があると信じられていた時代がある。今でこそトマトは食べても大丈夫だという「常識」があり、日常的にも広く普及しているので、なにもトクベツだとは思わないだろう。

さて、ここでこんな想像をしてほしい。トマトが悪魔の実だから食べてはいけないと言われていた時代にタイムスリップしたとしよう。そして、あなたが飛ばされたその地域では、それが宗教化し(あなたは食べても大丈夫だと知っていたとしても)戒律としてそこに住む人たち(あなたを含む)は食べてはいけないと決まっていたとしよう。

まあ別にトマトなんてたいしてトクベツなものでもないし、それくらいなんてことはないだろう……。

しかし、時が経つにつれて、偶然そこらへんに生えているトマト(あるいは観賞用のトマト)を見て、あなたは思う。なんと赤くてつややかで美しい見た目なのだろう。そしてあなたは知っている、これはホントウは食べられると。

カリギュラ効果というものがある。これは「ダメ!」と言われるほどやりたくなる現象である。「食べちゃダメ!」と言われれば言われるほど食べたくなる、そういう心理のことである。

いつ現代に戻ってこられるかわからない、ひょっとしたら、ずっとこの時代にタイムスリップしたまま過ごさないといけないかも……。そう思えば思うほど、今までなんとも思っていなかったトマトに対するトクベツ感が日に日に増していく……。

現代では、みんな当たり前のようにトマトを食べている光景をあなたは知っている。でもタイムスリップした今は、一切食べることができない。なぜ自分だけが(食べられるとわかっているのに)トマトを食べられないのだ……。私はなんて不幸なんだ……! そういう不満が徐々に募っていく。

そしてその不満が爆発しそうになる直前で、またタイムスリップし、現代に戻ってきた。お店にもふつうにトマトが売られている。そしてあなたは思うだろう。「やった……!! 今まで食べられなかったトマトが、ようやく、ようやく食べられるッ……!!!!!」

人間の不幸とは、このように生じるのである。ある特定の物事にトクベツ感を見出すからこそ、それが手に入らない(叶わない)という不幸を感じるのである。

お金はマボロシ

トマトの例はタイムスリップするという仮定の話だし、セックスもぶっちゃけ日本なら風俗に行けば体験できるし、風俗に行かなくても体験したことがある人は少なくはないだろう。

しかし、お金はどうだろうか。「お金持ちになりたい! そうすれば幸せになれるはずだ! だからたくさんお金が欲しい!」と思い、「お金」という(実態のない)ものに価値を見出せば見出すほど、それが(たくさん)得られないことを不幸に感じる。

でも、よくよく考えれば、お金とは紙切れである。あるいは薄い金属である。いや、今の時代はキャッシュレスなので、もはや物質的な「モノ」ですらない。ただの銀行残高の数字である。それに価値を見出しているのは(少なくとも人類が現時点で発見している生物の中では)人間だけである。しかも、本当の本当にそれが「紙切れ」になったことだって歴史上なんどかあった(ハイパーインフレ)。

で、あるならば、お金という実態のないもの(紙切れ、薄い金属、あるいは銀行の残高)が増えた減ったと一喜一憂するのは、お金に価値を見出した脳が見せる、ただのマボロシなのだ。

おそらくこの文章の意味は、日本語が読めるのなら誰でも理解できるだろう。そういう意味では、誰でも知識としてこれを理解することは可能である。

「そうはいってもお金がなきゃ生活できないじゃないか! 豊かな暮らしができないじゃないか!」と現代人が思ってしまうのはごく自然なことである。そしてそれこそが、東洋哲学の最も難しいところであり、言葉や文章を通しても「悟りを開く」ことができない(人がいる)理由なのである。

考えてみればそうである。本当に気持ちいいかどうかとか、好きな人とセックスできてこそ精神的に満足できるとか、いったんそういうのは抜きにして、単純に「セックス」という行為そのものに関してだけ言うなら、風俗嬢のセックスに対する価値観と童貞のそれが同じなわけがない。そして本気で苦しんでしまう童貞がこの世にいるのも事実である。

しかし、これを本当の意味で理解する(悟る)と、すべての不幸がたちどころに消えていく。

旅行好きに向けてダメ押し

マチュピチュの壮大さは、実際に行ってみないとわからない。写真や動画で見て、知識を得たからといって、マチュピチュの壮大さを本当の意味で「知った」ことにはならない。

もしあなたが実際にマチュピチュに行ったことがあり、その壮大さをその身で体験していたとしよう。そんなあなたの前に、行ったこともないのに知識だけ知って「マチュピチュを完全に理解した」とか言っているヤツがいたら「笑わせんな」って思うだろう。

マチュピチュではなくとも、これは旅行好きの人からすれば当たり前だろう。悟りを開くこと(人生のあらゆる苦しみから解放されること、宇宙の真理を理解すること、と同義といって過言ではない)とは、そういうことなのである。

体験的理解 = 仏教 = セックス

ブッダはそれをよくわかっていた。いくら言葉の限りを尽くしても、強烈な体験をその人の脳が得ない限りは「そういう考え方もあるよね」とか「何いってんだこいつ」とか「はいはいオカルトですね」とかで終わってしまうのである。

強烈な体験を持って、人生の苦しみの原因とは何かを本当の意味で理解する(悟る)。それこそが「悟りを開く」ということであり、ブッダ(仏教)が目指した道なのだ。

東洋哲学とは、仏教とは、悟りを開くとは、宇宙の真理を知るとは、まさにこういうことである。つまり、仏教とは、セックスなのである。

筆者にとっての悟り

そしてぼくは悟った。今までの人生で味わってきたあの苦しみにも、意味はあったのだ。あれがあったからこそ、仏教(東洋哲学)についての本を読んだとき、この「悟り」をすんなりと受け入れることができたのだと。セックスがしたくてしたくてたまらないのに、モテなくてまったくセックスできなかったとしても、それは不幸ではなかったのだと。

心を粉々に砕かれた苦しみや悲劇ですら⋯決して私を滅ぼす物ではなかったのだ。今となっては何もかもが美しい思い出になる⋯

BUSIN Wizardry Alternative 白髪の剣士のセリフ

参考図書

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

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