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幸せとは、シュレディンガーの猫である

本当は、「女性の言う『清潔感が大事』は思い込みなんじゃね?」っていうのを書きたかっただけなんだけど、書いているうちに直観を信じることで道が開けるっていう人生訓になってしまった。まあいいか。

幸せとは、シュレディンガーの猫である

『清潔感が大事』は思い込み

この記事では、「思い込みや期待や理性を捨てて直観を信じれば、幸せになれるのではないか」ということを論じてみたいと思うのだが、『直観』や『幸せ』について語る前に、まずはぼくたちの思い込みがどのように機能しているのかを説明させてほしい。

多くの女性は「清潔感のある男が好き」だと言う。だけど、ぼくは今までに清潔感のない女性に会ったことが何度かある(失礼なこと言ってごめんなさい 🙇‍♂️ でも本人に直接それを言ったことはないです。まあ言わないほうがむしろ残酷なのかもしれないが……)。そういう経験を何度かしていると、いつしかこう思うようになる。

「『清潔感が大事大事』って女性はよく言うけど、そういう自分たちは清潔感をあまり意識できてないんじゃね?」

でもこれは思い込みだと思う。まず、女性が言う『清潔感』とぼくが言う『清潔感』はズレている可能性がある。ぼくが思う『清潔感』は「爪をちゃんと切っているか」とか「歯をしっかり磨いているか」とか「髪の毛に目に見えるレベルのフケやシラミがついていないか」とかそういうものとして定義している。しかし、仮にこの 3 つは共通しているとしても、「これは清潔感がある。あれは清潔感がない」と判断するそのすべてが、一般的な女性の言うそれと一致しているとは限らない。

また、「清潔感が大事」と多くの女性が言っているからと言って、全員が同じレベルでそう思っているという思い込みも存在するのではないかと思う。現に、ぼくが思う「清潔感のない女性」が、「男って清潔感が大事だよねー」と言っているところを聞いたことは、今までの人生で一度もないかもしれない。それどころか、恋愛に関する番組や動画を見たときに、多くの女性がそう言っているだけで、現実世界で「清潔感が大事」と口に出して女性が言っているのを直接聞いたことすらあまりないかもしれない。

そう考えると、あくまでそれは傾向の話であって、ぼくが出会った「(ぼくが思う)清潔感のない女性」は「清潔感をあまり重要視していない」という可能性は十分に考えられる。もちろん、清潔感が「ある」か「ない」かの二元論だけでものを語るなら、「ある」ほうがいいという人の割合は圧倒的に多いんだろうけど、それはそんな聞き方をするからであって、一般的に「ささくれができづらい遺伝子を持った人が好き」みたいなレベルで『清潔感』をとらえている女性だってたくさんいるかもしれない。そりゃ、「ささくれができやすい人とできにくい人、どっちのほうが魅力的ですか?」みたいな聞き方をしたら、「うーん、そのどちらかで答えるなら、できにくい人のほうがいいかな」ってなるだけで、ぶっちゃけほとんどの人にとってはそれはどうでもいいはずだ。

そう考えると、「清潔感が大事」という価値観が、「ささくれ」レベルの無視できるもの、ではないくらいに重要だと思っている女性の割合は、半数を超えない可能性だってある。常識的に考えても「優しい人が好き」とか「気遣ってくれる人が好き」とか「多少清潔じゃなくてもイケメンならなんでもいい」って人だっているかもしれない。そしてそれらを『清潔感』と比べたとき、清潔感はそこまで重要じゃないっていう可能性だって十分に考えられる(繰り返すが、二元論で語るならそりゃ清潔感がいい人のほうがいいのは間違いないだろうが)。

さらにいえば、「イケメンが好き」とか言っちゃうと身も蓋もないし、そういう生まれつきのどうしようもない要素で決めてしまうのは卑しい人間だと思われるのが嫌だから、誰でも意識すれば向上できる「清潔感」という言葉に逃げて語っている(本心を言っていない)可能性だってあり得る。ぶっちゃけて言うと容姿が大事(イケメンが好き)だと思っているけど、そうは言えないから努力次第で変えられる『清潔感』を語っているだけかもしれない。

多くの女性が「清潔感が大事」だと言っているからと言って、それがほぼ全員に当てはまると思ってしまうのも思い込みだし、そもそもそれを本心で言っているはずだと考えるのも思い込みだし、『清潔感』の基準がズレている可能性について検証したわけでもない。

先ほど、「清潔感があるかないか」の二元論で語るなら、「あるほうがいい」と言ったが、それすらも、その変数のみを変えられるなら清潔感を意識したほうがいいという話であって、清潔感を意識しすぎるあまり、たとえばちょっと遅刻しちゃうとか、あるいはそれを相手にも求めるようになったりしたら、むしろそのほうがその相手にとってはマイナスになる可能性だってある。最初のうち(デートのときだけ会う関係のうち)はいいかもしれないが、付き合って同棲までするようになって、清潔感を意識するその瞬間を見てしまうと、「なんか細かい男だな」と判断されて嫌われる可能性だってある。

まあだから、これだけだと「思い込みをやめましょう」っていう月並みな結論にはなってしまうんだけど、人生全般において思い込みをまったくしないで生きるなんていうのはほぼ不可能である。もし一切の思い込みを排除するなら、玄関の扉を開けた瞬間に、動物園から脱走したライオンが目の前にいて襲いかかってくるという可能性を考慮しなきゃいけなくなって、まともに日常生活が送れなくなる。

人間の脳は、ある程度同じ経験を行うと、次もそうだろうという予測を立てて CPU リソースを節約するように設計されている。だから、何度も「清潔感が大事だって女性が言っていた」という話を聞く経験をすると、次第に「女性とデートするときは身だしなみを優先しないと!」と言った思考に囚われてしまうのは無理からぬことだ。相手が本当に清潔感がなにより大事だって思っていることを確認したわけでもないのにね。

『直観』は理性の裏側にあり、幸せを知っている

じゃあ、ぼくたちは何を基準に行動の判断をすればいいのか、って考えると、究極的には「何も考えずに直観で判断する」のが一番合理的という、現代を生きる我々からするとちょっと常識外れな結論が導き出される。清潔感をどれだけ気にしても、そして本人も現にそのように言っていたのを確認したとしても、それは世間体を気にしていて、本当は単にイケメンが好きなだけだと言うのなら、あなたがイケメンじゃないなら(もっと言えばその相手にとってイケメンと判定される容姿をしていなければ)その相手と付き合える可能性は低いだろう。

じゃあ逆に「清潔感が大事だとは限らないんだから、そんなものは一切考えなくていい!」というのもまた違う。だってもしそうだったら、「清潔感が大事」なんていうものが話題として上がってくること自体がおかしいことになる。それこそ「ささくれができにくい遺伝子を持つ人が好き」レベルの話なんだとしたら、そもそも話題にあがってこないはずだ。

つまり、「清潔感にこだわりすぎるのも違うし、清潔感にこだわらないことにこだわるのもまた違う」ということだ。

じゃあどうしろって言うんだと思うかもしれないが、そういう打算的な考え方をしなければいいのだと個人的には思う。「清潔感があったほうが今回のデートは成功する確率が高まるだろう」と判断するのではなく、かといって清潔感をまったく無視するわけでもない。あなたが直観的に、デートで家を出る直前に、なんとなく鏡の前で見た目を確認したいと思ったならそうすればいい。「めんどくさいし別にいっか」と思ったら別に過度に気にしなくてもいい。それくらいでいいんじゃないか。

どうせ、相手が『清潔感』を「『イケメン好き』と答えて卑しい人間だと思われるのを避けるための贖宥状のようなもの」としてとらえているなら、あなたがどれだけ見た目を気にしても勝負は既についている、という可能性も否定できない。きっとフラレた理由を聞けたとしても「(私にとって)イケメンじゃないから」なんて回答は得られないと思う。

それならそもそも相手がデートを承諾することすらないのではないかと思うかもしれないが、それすらもただの気まぐれで、実際に会ったらイケメンに見えるかもしれないと期待していたから承諾したのかもしれないし、あなたからの最初のデートの誘いを断るほうがめんどくさかったと思っていたかもしれない……。

そして、これは科学的根拠はまったくない与太話ではあるが、相手がそう思っている(あなたが何をしても見込みがない)というのは、あなたの理性は知る由もないが、実は直観は知っているのではないだろうか。あなたがその人とのデート直前に「(清潔感を意図的に意識して身だしなみを整えるのは)めんどくさいし別にいっか」と思うのは、今回のデートは実りがないということを直観は実はすでに知っているからそう思うのかもしれない。

それならそもそもデートに行くこと自体をめんどくさいと直観的に思ってもいいのかもしれないが、今回のデートが失敗することが、次のデートが成功する布石になっている可能性もあるかもしれない。もしそうなら、仮に今回のデートが失敗すると直観がわかっていても、失敗しなければいけないのだからデートに行かないほうがいいという直観は働かないという可能性もあり得る。

でも、ぼくたち現代人は、理性を重要視して科学などを発展させてきてその恩恵を十分に享受できているという実感があるから、理性を重要視して、こんな科学的に証明できない与太話を信用しようとはしない。直観を信じようとしない。もしそれでデートがうまくいかなかったら、直観を信じたことを後悔してしまうからだ。

でも、さっきの例で言うなら、デートがうまくいかないのは『出来レース』だからいくら理性を働かせても意味がない。それを直観的に読み取ったからこそ、無駄な努力をしないように「めんどくさい」という感情が発生していると捉えることもできる。

だいたい、これが完全なデタラメなら、どうしてぼくたちの祖先は『直観』という言葉を生み出したのだろうか。『何の根拠もないテキトウな判断』とかでいいじゃないか。「長いから短くしたかった」という理由なら、成功したら『偶然』や『奇跡』と呼び、失敗したら『軽率』とか『馬鹿』とでも呼べばいいじゃないか(『虫の知らせ』などの言葉についても同じことが言える)。

ということは、科学的に証明できないだけで、「『直観』は存在するのではないか?」と考えることができる。あれこれ論理的に考えてうまくいかないことが多いなら、直観に頼ってみるのもいいかもしれない。「直観に頼ったら失敗する」のではなく「何をしても失敗することを直観が知っているから、無駄に努力しないように、論理的に見るとテキトウな行動(先の例では、めんどくさいから清潔感をあまり気にしないでデートに臨むこと)をするように直観が働く」のではないだろうか。

今回の例で言うと、「めんどくさい」という感情が直観から発せられるメッセージなのだとしたら、「失敗したら後悔する」という感情は理性が生み出していると考えることができる。そのデートが成功したら必ず幸せになって、失敗したら必ず不幸になるとは限らないのは納得できるだろう。そうであるなら、直観を信じることと理性を信じること、最終的に幸せになれるのは、はたしてどちらだとあなたは思うだろうか……?

『直観』は、直観に反する科学のようなもの

この記事は、『哲学的な何か、あと科学とか』を読んでいて、『カオス理論』(バタフライ効果)や『量子力学』(シュレディンガーの猫)について学んだときに、ふと脳裏に浮かんだものを文章にまとめたものだ。

「リオデジャネイロで蝶が羽ばたくと、数週間後にテキサスで竜巻が起こる」という比喩が、物理学の世界で生まれてしまうくらいに不思議なことが、実際に起こりうる可能性を示唆しているという事実に衝撃を受けた。しかもこれって、あらゆる苦しみから解放される悟りの境地に達したとされるブッダが説いた『縁起』の概念にかなり近いようにも思う。説明不要だと思うが、ブッダは科学が登場するはるか昔の人物である。だから、ブッダが、いわゆる今日の科学的な知見を用いて『縁起』を説いたわけではないことは明白だ。

同じように、「箱の中の猫は、観測するまで生きている状態と死んでいる状態が同時に存在している」という信じがたい思考実験も、物理学の世界から生まれている。そしてこれは、我々が「物質は存在する」ということを当たり前だと思っているからそんな摩訶不思議なことを言わざるを得なくなってしまうのであって、バークリーが唱えたように「知覚してはじめて存在すると言える」であったり、般若心経のフレーズ『色即是空、空即是色』に代表されるような、龍樹の『空の哲学』の観点から考えると、「電子が波でもなければ粒子でもない」というのは、そこまで不思議でもないような気がしてくる。

ちょっと話題は変わるが、「未来に対する恐怖や不安といった、論理的にもっともな感情の発生(理性)は、ただ人間が生存するためのツールに過ぎず、あなたに充実感や満足感や幸福感を与えてくれるものではない」といったことが、以前読んだ『考えすぎない練習』という書籍に書かれていた。そうであるなら、「これをしたら、もしかしたら死ぬかもしれない」といった最悪の状況すら受け入れる覚悟がないと、本当の意味で幸せになることは不可能であると言える。ていうか、外に出ると運悪く交通事故に遭って死ぬ可能性だって否定できないんだから、究極的なことを言えば、「死にたくないなら一歩も外に出るべきではない」という理屈になってしまう。そんな人が幸せになれるかどうかを考えてみれば何も不思議なことではないだろう。

究極的には、何かしたいこと(それこそ異性とデートをすること)があって外に出るということは、最悪、その道中で交通事故に遭って死ぬ可能性を暗黙のうちに受け入れているということになる。だから、「スポーツ選手としてやっていくのは大変だからやめておきなさい」とか「エベレストに登ろうとしたら、最悪死ぬかもしれないよ」と言うのは、「一流企業に就職してもクビになるかもしれないよ」とか「外に出たら交通事故に遭って死ぬかもしれないよ」と言っているのと、本質的には何も変わらない。変わるのは世間一般的に確からしいと信じられている確率だけだ。しかもその確率ですら、思い込みに過ぎないかもしれないのだ。もっと言えば、スポーツ選手として華々しく活躍することを夢見て、結果それが叶わなかったとしても、その経験が別の可能性を開花させ、別の意味で成功する可能性だって否定できない。

そこまで考えると「もはや理性で何事かを判断することに意味はあるのだろうか?」と思うようになり、「なんかもう、すべて直観で判断して生きればよくね?」っていう楽観的な考え方ができるようになった。しかも、そう考えることで、たとえ自分にとって不都合な(デートに失敗してフラれるといった不幸を感じるような)出来事が起きても自分の行動に後悔しづらくなるから、結果的に不幸になりづらい、というパラドックスが発生する可能性に魅力を感じた。デートに失敗した(その直後は不幸になった)結果として、自分にとってより魅力的な相手がそのあと現れて結ばれて幸せになる可能性だってあるわけで、そういう可能性を常に心から信じられる限りは、なにが起きても不幸だとは断定できないから、結果的に、デートに失敗するといった不幸を感じるようなことが起きても不幸にならない、という理屈が通るのである。

これって、「デートに失敗したという、不幸だと思われていた出来事が、巡り巡って別の幸運を引き起こすことがある」という『カオス理論』(バタフライ効果)みたいな感じではないだろうか? あるいは、「起きた出来事が不幸かどうかは人生を最後まで通して(観測して)はじめてわかることであって、現状(人生を終える前、つまり、観測前)のあなたの人生は、幸せであることと不幸であることが同時に成り立っている」という『シュレディンガーの猫』みたいな感じではないだろうか?

つまり、科学における『カオス理論』や『特殊相対性理論』や『量子力学』といったものは、人間の人生に当てはめると、『直観』に該当するのではないだろうか? そして、『直観』について直観的に判断すると、幸せになれるということが導き出されるのだ! まったく論理的には説明のつかない『直観』に従って生きていくと、ぼくたちが求めようとしてもなかなか思うように手に入らない『幸福』というものが得られるというこの仮説は、まさにぼくたちの『直観』に反する、『バタフライ効果』とか『時間の遅れ』とか『シュレディンガーの猫』とソックリなのである。

思い込みや期待の罠

ただし、ここで注意しなければいけないのは、「今回のデートに失敗したから、必ずそのあとより魅力的な相手が現れるわけではない」ということだ。それを期待して、あえて今回のデートを失敗するように振る舞うのもおかしいし、そうじゃなくても、「きっともっといい人が今後見つかるための布石なのだ!」と自分に言い聞かせて、実際にはそうはならなかったときに失望したら、やっぱり不幸になってしまう。だって、それは、「異性と付き合えたら、結婚できたら、必ず幸せになれる」という別の思い込みを捨てきれていないからだ。あなたにとっては、そもそも異性と付き合えることそのものが幸せにならない可能性だってあり得る。

「いつ、いかなるときでも直観を信じていれば幸せにつながる」というのは、科学的には証明されていないし、今後も証明されることはないだろう。だから、これを心から本当に信じることは難しい。そして、直観だけを信じて行動した結果、幸せになれなかったとしても、こんなことを書いているぼくを含め、誰も責任はとれない。だけど、「直観に従って生きていたらうまくいかないかもしれない」という恐怖や、「本当に直観だけを信じて良いものなのだろうか?」といった疑いを本当の意味で克服した状態で直観に従って生きた者にだけ、直観は正しく働き、あなたを幸せにするのかもしれない。

もし今後、仮に直観が正しいことが科学的に証明されたとしても、「科学を信じるから直観も信じる」というのは、直観を信じていることにはならない。直観とは、あらゆる先入観や思い込み、偏見、論理的に妥当な判断を捨て、また「直観を信じればうまくいくはずだから直観を信じる」という打算的な考えすらも捨て、心から純粋に信じられる場合にのみ、正しく機能するのではないだろうか。「神は死んでいない」と心から本当に信じられる者にこそ、神の恩恵が与えられるのではないだろうか。

『直観』=『幸せ』=『シュレディンガーの猫』

これは科学者ではないぼくの戯言だが、量子力学の奇天烈な発想に呆れたシュレディンガーが『シュレディンガーの猫』を提唱したように、ぼくも現行の量子力学には、なにか決定的な間違いが存在していると思っている。つまり、真実はもっと別のなにかだと思っている。

そして、おそらくこの『シュレディンガーの猫』の不思議さというか、別のなにかが真実だという証明は、どんな天才がいくら物理学を学んでも、いくら論理的思考を重ねても、それだけでは導けないと思っている。もし導けたのなら、そこには「なんかわからないけどある日突然、こうなんじゃないか? という仮説を思いついて、実際に実験してみたらそうなった」という、科学的には何の根拠もない『直観』が必要になるであろう。

そしてこれは、誰にでも閃くことができる『可能性』は存在するが、実際に閃くことができる人間は非常に限られている(あるいはそんな人は現れず、この謎は未来永劫、人類は解き明かすことはできない可能性もある)と思う。それは「科学が苦手な人もいる」とか「そもそも量子力学やシュレディンガーの猫を知らない」とか、そういう単純な話じゃなくて、「『シュレディンガーの猫の不思議さ』を解き明かすことが幸せにつながらない運命を背負った人に、この謎を解明する直観は働かない」からだと思っている。

つまり、「シュレディンガーの猫の謎を解き明かせないと幸せにはなれない人」が、直観をフルで働かせたらシュレディンガーの猫の謎を解明できるかもしれないということだが、そもそも「シュレディンガーの猫の謎を解き明かせないと幸せにはなれない人」がいったいどれだけいるというのだろうか。おそらくほとんどの人にとっては「シュレディンガーの猫の謎が自分で解き明かせたら嬉しいだろうけど、別に解き明かせなかったからといって幸せになれないわけではない」のではないだろうか。

これは、どんなに頭が良くて、どんなに数学を勉強しても、数学に命を賭けられるほどの情熱を注ぎ込まないと幸せにはなれないのではない限り、ラマヌジャンが発見した数式を同じように発見することができないのと似ている(もちろんその人はラマヌジャンが発見した数式を知らないことを前提とする)。そもそも、ラマヌジャンが発見した数式の数々だって、その根源を辿れば『直観』でなくしていったいなんだというのだろうか。

数学は論理体系の一つなのに、その数学における数式や定理の発見において、その大元となる最初の一歩が、数学的(論理的)な手続きを経ずに導かれた閃き(直観)であるという事実は、なんとも皮肉なことであるが、それこそが直観の真理なのだと感じずにはいられない。そしてそれこそが、「直観に従って生きていれば幸せになれる」ということを科学的に証明できない理由そのものであると言える。なぜなら、科学もまた論理体系の積み重ねによって生まれた学問なのだから。

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