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なんでみんな資本主義でがんばろうと思えるのだろうか

前からずっと思っていたことではあるのだが、史上最強の哲学入門のアダム・スミスとマルクスの章を読んでいて、そういえば以前に書こうと思って書いていなかったなと思って書くことにした。

なんでみんな資本主義でがんばろうと思えるのだろうか

資本主義は努力や苦労を反映するとは限らない

子どものころから一生懸命に勉強して、有名大学に進学して、そこでも勉学に励み苦労して論文を書き上げて卒業して、激しい競争のなかようやく一流企業に就職した人よりも、高級店のソープ嬢のほうが、平均的には稼ぎは良いと思う。

では彼女らは前者のようないわゆるエリートよりも苦労してその職と地位を勝ち得たのかといえば、必ずしもそうであるとは限らない。特にこうした夜職は生まれつきの容姿の重要性が大きなウェイトを占めていると考えられる。

容姿がすべてとは言わないが、ある程度はその重要性が認められる職業(上記の例では夜職)において、一般的にその職に就いたりその企業に就職することが難しいとされている職業(上記の例ではエリート)よりも稼ぎが良くなることは十分にあり得る話である。また、もちろん夜職が楽に稼げる仕事だとはまったく思っていないが、生まれつきの容姿が良ければ、並々ならぬ苦労をしなくてもお金をたくさん稼げる人がいることも事実だろう(もちろん全員ではない!)。

そう考えると、この資本主義社会において、「稼げることこそが正義!」となってしまっているのには疑問を感じざるを得ない。世論的に、稼げないやつは努力が足りないという風潮があるのもそうだし、そのような風潮がなかったとしても、資本主義においてはお金が稼げなければ良い暮らしができないのは現実問題として存在する。

⚠️ 職業差別ではない

ここで主張したいのは、「水商売は楽して稼いでいるからズルい」とかでは決してない。これはあくまで一例であって、別に一流企業の社員とソープ嬢じゃなくても良い。

一般的に「水商売は高給取り」と考えられており、特別な資格を必要とせず、また、稼げるとは分かっているものの、割合として夜職を避ける女性が多いから競争が比較的少ない。それとは対象に、現代の、特に先進国では、一流企業に就職することに対して憧れや理想を抱きやすい社会となっており、競争が激しくどこの大学を卒業したかを問われることもあり、そのためにたくさん勉強しなければならないというのが一般的であるから、この両者が例として比較しやすいというだけだ。

「ソープ嬢だって接客や対人スキルが必要で、顔だけでやっていけるほど簡単な世界ではない。それに、嫌なお客さんを相手にしないといけないこともある」という大変な面があることはもちろん承知しているが、ここで言及したいのはそういうことではない。そして、筆者は夜職にまったく偏見がないということも十分理解していただきたい(どうしてもそう思ってしまうなら、なんならエリートと夜職じゃなくても別にいい。意図を汲み取って別の例で置き換えてもらっても良い)。

それで稼げるのも才能だし、それが純粋にやりたいことなら大いにやったら良いと思う。別に批判しているわけではない。ただ、お金を稼ぐという価値観だけで無理して努力や苦労をしても、生まれつきの容姿や才能のある人には叶わないから虚しくなるよねって話。

お金に色はない

また別の例をあげてみよう。あなたとぼくが初対面で顔合わせをして、ぼくが一万円札をあなたの前で見せたとする。さて、その一万円札は何をした結果として得られたものか、あなたにはわかるだろうか?

もしあなたがぼくの職業を知っていれば、その職業で働いたことによって得たお金だと思うのは不思議ではない。職業を知らなくても、この資本主義社会で生きている限りは、基本的には労働をして生活しており、その労働の対価として得たお金だと思うのもおかしくはない。

しかし、絶対にそうだという確証はない。もしかしたら、待ち合わせ場所に向かう道中で、お婆さんに気づかれないようにこっそりサイフを取り、そこからくすねた一万円札かもしれないじゃないか。そして、それが周りの第三者を含め誰にもバレず、またお婆さんもサイフの中にいくら入っていたか覚えていなかった(サイフの中身を見ても盗まれたことに気が付かなかった)としたら、逮捕されることもない。

「1 度や 2 度ならまだしも、常習することはできないんだから、そんなのは極端な例だ」と思うかもしれないが、実際には闇バイトとかで他人を脅して強盗させるといったカシコい例もあり、拠点を海外に置いているなどで検挙されない例だってある。つまり、野放しになっている犯罪によってお金を稼いでいる例だって実際にあるわけだ。

「お金に色はない」という表現もあるように、そうして(不当に)手に入れた一万円札であっても、行為そのものがバレて逮捕されない限り、それが犯罪によって手に入れたものであることはわからない。そして、汗水垂らして一生懸命働いて得た一万円札と同じ価値を持ち、お店などでは同じように扱われるのである。

別にそれは物理的な現金じゃなくたって成立する話だ。特に最近ではキャッシュレスも十分普及してきたので現金を使わない人も増えてきただろう。そうなったらインターネットを通じてだまし取ることだってもちろんできるわけだ。そうして手に入れた銀行口座の残高もまた、汗水垂らして一生懸命働いて稼いだ銀行口座の残高と同じ価値を持つのである。

つまり、お金とは、所有者や入手経路を直接知ることのできない曖昧な媒体で、紙切れであり、ただの銀行口座の残高の数字でしかない。にも関わらず、資本主義社会ではそれがないと豊かな暮らしどころか、生きていくことすらできないのである(『最低限度の生活を営む権利』は保証されているが……)。

犯罪行為という極端な例をあげたが、そうじゃなくても、一生懸命働いたところで、既得権がある人には叶わない。仮にめちゃくちゃ努力した結果、運よく大金持ちになれて甘い汁を吸う連中に経済的に勝てたとしても、その努力は見合うものではないだろう。別に収入的に負けたとしても、彼らは十分過ぎるほどの富を最初から何の苦労もせずにすでに手に入れられる権利を有しているのだから。

これは生まれつき裕福な家庭に生まれ育った場合もそうだ。本人がそう望んだわけでもないし、望んで得られるものでもないのに、産まれながらにして裕福な生活を送れる人もいれば貧乏な生活を強いられる人もいる。それもこれも、資本主義が産んだ産物(格差)である。

お金持ちは運が良いだけ

「そんなに文句を言うんだったら、自分が起業でもしてお金持ちになればいいじゃないか」と思うかもしれないが、やはりこれも資本主義思想に染まってしまった人間が浴びせる言葉の暴力なのだ。

今の世の中(先進国)が資本主義だからこそ、そして身分制度も廃止されて職業選択の自由があるからこそ、起業家になればいいと簡単に言えてしまうのである。でも、人間には得手不得手があるのであって、すべての人間が起業して成功できるとは限らない。それは努力を欠いているとかの問題ではなく、やはり生まれつきの能力に依存するところがある(後述するが、努力ができるかどうか自体も問題ではある)。

これはアーティストとかスポーツ選手を思い浮かべてもらえばわかりやすいだろうか。もしめっちゃ努力したら、あなたは米津玄師と同じくらい人気のアーティストになれると思うだろうか。もしめっちゃ努力したら、大谷翔平と同じくらい活躍できると思うだろうか。おそらく多くの人は、それは難しいと納得してくれることだと信じている。努力だけではどうにもならない壁があると。

起業家になるのもそれと同じだと思っている。だいたい、学生のころに勉強量はそれほど変わらないかむしろ自分のほうがたくさん勉強している(勉強法も間違っていない)のに、成績ではいつも優等生に負けるという経験をした人は少なくないはずだ。

別に優等生じゃないから成績が上がらないとか、才能がないから起業して成功しないとか、そういうことを言っているわけではない。正しく努力すればそれなりの成果は出るだろう。しかしそれでも限界はあるし、そもそもあなたはそれをしたいと思っているとも限らない。勉強が好きで好きでたまらない(その結果、成績も優秀な)人もいれば、勉強が嫌いで嫌いで仕方ないけど、勉強しないと将来困るから嫌々がんばって勉強して、成績は多少は上がるけども鳴かず飛ばず…… という人だっている。

そもそも全員が「めっちゃお金儲けしたい!」って言って起業したら(あるいは儲かる仕事だけを全員がやったら)誰も野菜や家畜を育てたり家を立てたりしなくなってしまいみんなで仲良くのたれ死ぬことになる。そもそも家畜を育てるのが好きだって人もいて、そのことにめちゃくちゃ才能がある人もいる。当然、実業家として企業を運営することにめちゃくちゃ才能がある人だっている。

だけど、資本主義の仕組みの中では、どんなに努力しても、どんなにその道で才能があってやっていても、職業が違うというだけで経済的に圧倒的な差がついてしまうものである。どんなに優秀な実業家で大金を稼いでいても、農家の人がいなかったら死んじゃうのにね。

資本主義だからこそ、起業家が経済的に有利になる。しかし、もし世の中がそうじゃなかったら…… たとえば、戦国時代だったら、殿様がそのポジションに該当することになるだろう。たしかに優秀な部下をヘッドハンティングするためにある程度の資金力は必要だったかもしれないが、どちらかといえば策略を練るのがうまかったり軍事の才能があったりしたほうが有利だっただろう。そんな時代に今の起業家がタイムスリップしたら、きっと今のような恩恵は享受できていなかっただろう。

つまり、端的に言えば、運が良いだけである。たまたま容姿が整っており夜職に抵抗がなかったから、一生懸命勉強したりしなくてもそうしたエリートと同じかそれ以上の稼ぎを得られる。たまたま裕福な家庭に産まれたから何の苦労もせず豊かな暮らしができる。たまたま実業家としての才能があり「資本主義万歳!」の現代に運よく産まれたからそのスキルを活かして大金が稼げる。

もちろん、そうした産まれながらの容姿や才能、境遇を持った人にも彼ら・彼女らなりの苦労があるのだと思う。だけど、資本主義という「お金を稼ぐことが正義!」という世の中では、どうしても不公平を感じてしまう。

資本家による労働者の搾取

そしてそうした道を歩めなかった人たち、特に日本においては割合的には多くを占める雇われの労働者は、雇用主のもと(会社など)で生み出した成果に対する対価として給料なり報酬をもらうわけなのだが、実際問題、労働によって生み出された富と同等の給料をもらっているわけではない。労働によって消費される自由時間や労力には見合っていないのである。

あるデータによれば、必要労働時間と余剰労働時間はほぼ同等だと言われている。つまり、本来なら 1 日 8 時間のうち、約半分くらい働けば良いところを、その倍も労働させられているというわけだ。もちろんこれは倍働いてようやく必要労働時間と同じ対価を得るということだから、今と同じ給料で現状の半分の労働時間で済むところを、倍働かされているということにある。

そしてこれは残業しなかった場合の話だ。もし残業するなら、もっと余剰労働時間が増えることになるのは言うまでもないだろう。資本家による労働者の搾取である。すごくぶっちゃけて言えば、雇われ労働時間の半分はサボってようやくトントン(かろうじてもとが取れる)ってところだ。

そして、先に述べたとおり、いくら職業選択の自由があるとはいえ、みんながみんな資本家側に回ることはできない。そこには努力だけではなく、産まれながらの才能もある程度は絡んでくるものである。

資本主義のやるせなさは絶対王政を超え得る

そうであるなら、結局のところ資本主義とは、王様や貴族が庶民の富を吸い上げて酒池肉林の限りを尽くす中世と何も変わっていないということになる。王様や貴族は身分によって決まるものだから、努力してどうにかなるものではないと、諦められるだけまだマシだった可能性すら出てくる。今は王様や貴族ではなく資本家がそのポジションに置き換わったわけで、それは誰でもなれるものだから公平だ(「文句を言うな」「努力が足りない」)と言われてしまう現代のほうがよっぽどタチが悪いかもしれない。

そして、本気でそれを信じて期待してしまう(資本主義社会に洗脳される)から、どんなに努力してもなかなかうまくいかなくて更なる不幸に陥ってしまう可哀想な人もいる。また、この事実に気づいたとして、やはり不公平だと思う不満だけが残り、周りからは負け犬の遠吠えだと揶揄されるのが目に見える。「お前は王様や貴族になれない」と完全に諦められるほうがまだマシだ。そうすれば、可能性の薄いところに無駄な努力をして更なる不幸に陥らずに、お金持ちになる以外の方法で幸せに暮らす方法を潔く模索できる。

「努力しろ」というステルス差別主義者

もちろん、努力が悪だと言うつもりはまったくない。努力そのものが好きなのであれば、努力が努力だと思わなければ、それは結構なことだ。しかし、努力に苦しみが伴うのであれば、やはりその努力は本当に必要なものなのかを考える必要がある。そういう場合は、仮にお金持ちになったとしても幸せになれるとは限らない。

そして、自分が好き勝手努力するだけならまだしも、他人に「努力が足りない」とか説教する連中に、いい加減うんざりしている。正直ぼくからすれば、「ただ稼ぐ才能があっただけ(あるいは努力する才能があっただけ)なのに、それをすべて自分の努力のおかげだとかほざくバカ」にしか見えない(努力できるかどうかも遺伝が関わる)。一発抜いてスッキリしたあとに「こんな仕事して恥ずかしくないのか」と説教垂れるおっさんと同じだ。

「好きなことをして生きていけるほど、世の中は甘くない」という人がいるが、「好きじゃないことをして幸せになれるほど、世の中は甘くない」の間違いだと思う。いい加減、経済力や稼ぐ能力だけでものを語るのはやめろ。

ぼくは、これは一種の差別だと思っている。人種差別や障がい者差別がいけないことになったとしても、差別したい連中はいつの時代も存在するものだ。でも人種差別や障がい者差別をしたら批判される……。そんな連中が次に見つけたターゲットが、「稼ぐ能力のないやつは努力が足りない」「努力できないやつは豊かになれなくて当然」という差別だ。「資本主義で成功するのは運」という研究がイグノーベル賞を受賞しているし、「努力は遺伝の割合が大きい」というのも科学的に証明されている。身長が低い人に悪意を込めて「チビ」と罵ったり「170cm 以下は人権ない」と言ってみたりするのが差別で、「努力しろ」がどうして差別にならないのだろうか(後者の発言はゲームスラングの「人権」を辞書通りの意味と誤解され広まったもののようだが)。

繰り返すが、だからといって努力がまったくの無駄であるとか自分は努力ができない人間だから優遇しろとまでは言わないが、それでもなお「すべてが遺伝なわけないから言い訳だ」とか「それは逃げているだけだ」とか「弱音を吐くな」というなら、もはや 人種差別主義者と同等 といって差し支えないだろう。むしろそっちが批判されるべきである。自分が言い訳をせずに生きていくのは勝手だ。だが、それが当たり前のことであると他人に強要したり説教したりするのはどう考えてもおかしい。

「努力が足りない」と他人に説教するやつは煙たがられ忌み嫌われて当然だ。そういう扱いを周りから受けて然るべきだと肝に銘じろ。お前の正義は歪んでいる。うつ病で苦しんでいる人に「ただ怠けているだけだ」って言えるのか? 末期がん患者に「気合いで治る」って言っているようなものだ。これ以上差別するのをやめろ。

努力信者

経済的に(資本主義的に)成功した人は、みんな努力したって言うから、こうやって「資本主義とか運ゲーだよ」「努力も遺伝だよ」とか言うと努力を踏みにじられた気がして不快に思う人もいるだろう。だが、努力できるということですら天からの恵みである上に、自分の持っている才能がたまたま「稼げる仕事」に活かせた、という事実を無視して、なんで努力だけでのし上がったと思えるのだろう。社会的に不遇な人と脳みそ丸ごと交換しても同じこと言えるのか?

だいたい「努力努力」っていうけどさ、どんなに努力できても、周りの人間がいなかったら絶対に成功できないからな。あなたの商品を買ってくれるお客さんがいないのに、どうやってお金持ちになるのだろうか。みんながいてこそあなたが輝くのに、「努力したおかげだ」とか「努力しなさい」っておかしくね?? 努力してお金をたくさん稼ぐのはそんなにえらいのか?

努力すれば報われるというがんばり甲斐のない世界

どんなに勉強して学歴を身に着けても、どんなに世間的に憧れる企業に就職しても、どんなに一生懸命働いても、どんなに努力しても、たいして苦労していない人にすら勝てないことがある(繰り返しになるが、ソープ嬢や起業家が全員まったく努力していないとは言っていない)。一生懸命稼いだそのお金も、何をした結果として得られたものだかわからないただの数字。犯罪をしても捕まらなければ同じものが手に入るとかやってられない。生まれつきの家庭や容姿、才能でその後の境遇も決まる……。

稼ぐこと(銀行口座の残高の数値を増やすこと)そのものが好きなのではない限り、あるいはその仕事の内容そのものが好きなのではない限り、この資本主義社会で「がんばろう!」と思うことがどうしてもできない。その上、そうした努力を怠った人間は後ろ指を指され、揶揄され、罵倒され、批判され、説教される。資本主義とは、なんて素晴らしい仕組みなのだろうか。みんなよくがんばってるよね。

作品の良し悪しなんかみんなどうでもいい

こうした執筆活動だって、これで生計を立てている人もいるんでしょ。そうした活動で稼いでいる人には読者がある程度いるはずで、その内容がどれだけ稚拙であったとしても、おそらく読まれるのだろう。内容に関わらず「その人が書いたものだから」という理由でその記事の存在が知られ、読まれる。この記事が読むに値しない駄文であるかどうかはおいておいて、仮にどんなに素晴らしい記事を書いたとしても、もとが知られていなければ読まれない。結局のところ、作品の出来不出来に関わらず、評価されるものは評価されるし、評価されないものはされない。それが現実だ。

稼げるかどうかで考えるのは幸せにはなれない。だったら、自分が心からやりたいと思える仕事、いや、自分にとってそれが仕事ではなく遊びのように思えてしまうようなもので生活していくのが幸せになる方法なのかもしれないが、現状、そうした仕事はぼくにはまだ見つかっておらず、こうして趣味でやっている執筆活動も、収益化からはほど遠い存在である。だから本当は別にしたいとは思っていない雇われ労働をせざる得ないわけで、それが社会的にどれだけ憧れられている職業だろうが、自分にとっては幸せにはつながらないのである。

経済的自由から精神的自由へ。そんな理想的な社会は果たして訪れるのだろうか……。訪れたとしても、それが 20 年後 30 年後じゃぼくの人生の労働寿命のほとんどが終了しているから意味ないわけで……。はぁ、生きるの虚しい……。

思考の無限ループから抜け出せない哀れな負け犬

まあ逆に言えばお金がただの紙切れ(ただの残高の数値)だと思っているなら、『宵越しの銭は持たない』精神で、金に糸目をつけずに今やりたいことを好き勝手やるのが良いっていう楽観的な発想になれるのはなれるのだが、とかく家が貧乏で「お金は大事」とか「そんなことに使ったらもったいない」っていう価値観を幼いころから刷り込まれているせいで、そう割り切るのも難しい。しかも未来への不安を抱きやすい性格なので、そんな後先考えずにお金使ったら将来的に困るんじゃないかという恐怖も邪魔をする。

そのうえ、どうあがいても資本主義社会で生きていくしかないわけで、やっぱり不公平だという考えが拭いきれないから、ソープ嬢にこんな高いお金を払うのは納得がいかないみたいに思っちゃったりする気持ちもあって、「じゃあ風俗なんか行かなきゃいいじゃん(馬鹿だね笑)」って話なんだけど、今までずっとモテない人生やってきて、今度もモテる気がしないから、そうでもしないと常日頃から湧き上がる悶々とした気持ちを抑えることもできなくて、「あーでもそんなところにお金使うのは……」って堂々巡りして……。

経済的負け犬、社会的負け犬、家庭的負け犬、恋愛的負け犬、思考的負け犬……。なんだこの人生??

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