悟りの開き方を完全に理解したので解説させてください
執着を手放そう
いまこの瞬間においては対象外の読者
⚠️ 今現在、つらい病気(特にうつ病などで今すぐにでも死にたいと思っているなど)を患っていたり、親から虐待されていたり、家族から家庭内暴力を受けていたり、監禁・軟禁されていたりする、あるいは過去にそういったものがあり心的外傷後ストレス障害を抱えているなど、本当に大変な状況に身をおいているなら、この記事を読んでいる場合ではありません(悟りを開いている場合ではありません)。医者や周りの信頼できる方々に相談して、まずはそちらを先に対処するよう努めてください。そしてある程度落ち着いたら、またこの記事に戻ってきてください。悟りを開くのは、それからでもまったく遅くはありません。
結論
曖昧な解説でお茶を濁しても意味ないと思うので、結論を先に書きます。
執着を手放してください。
これだけで完全に理解した場合は、この先の文章を読む必要はありません。お疲れさまでした!👏
そうじゃない人は、続きを読んでみてください 👇
幸福宣言
悟りを開く前に、まずはこの宣言をしてください。
「私は、今後の人生において、自分が幸せになることを第一の価値観に据えます」
すごく普遍的なことではあるのですが、この宣言は重要です。なぜなら、私たちは、日常生活で様々な執着を持つと、簡単にこのことを忘れてしまうからです。
「幸せになる」という言葉がむず痒く感じるなら、「苦しみや悩みから解放されること」と読み替えても問題ありません。
宣言というと仰々しいですが、難しいことはありません。「幸せになりたいな」と思うだけでも十分です。
もしあなたが、幸せになること以上に人生で成し遂げたいなにかがある場合、悟りを開くのは(たぶん)無理です。いや、できるかもしれませんが、少なくともぼくはその方法をまだ知らないので、お手伝いすることはできません。
しかし、人間の人生は人それぞれ。自分が苦しんででも成し遂げたいことがある…… そういう人生もあるでしょう。それは否定しません。もしあなたが、その目的を達成したから今度こそは幸せになることを第一の目標にしたいと思った、あるいは目標のためにひたすら努力してきたが、いくらがんばっても報われない…… と感じ疲れてしまい、幸せになることに目標をシフトしたくなったら、またここに戻ってきてください。大丈夫です、悟りを開くことにおいて、遅すぎることはありません。
苦しみのほぼすべては頭の中で起こっていると知る
今なにかに苦しんでいる人にとても衝撃的なことを伝えます。
あなたのその苦しみ・悩みは、実は妄想です。
「ふざけんな! お前は俺のこの状況をなにも知らないからそんな無責任で他人行儀なことが言えるんだ!」と怒りたい気持ちはわかります。でもまあ、まずは聞いてくださいな。
「仮に、まかり間違って、もし本当に、あなたの今の苦しみや悩みが妄想なのだとしたら……」と想像してみてください。もしそれが本当なのだとしたら、その苦しみは、あっという間に消えると思いませんか……?
例えるなら、あなたの友人がいま映画を見ているとしましょう。その映画の主人公は、それはそれは誰もがそう思うくらい悲惨な人生を歩んでいます。そして、その映画があまりにもリアルで精巧に作られており、その友人はその主人公に完全に感情移入(同化)してしまいました。そしてあなたにこう嘆いてきます。
「俺の人生はなんて不幸なんだ! お前に俺の苦しみがわかるか!!?(泣)」
そんな友人が目の前にいたら、なんて声をかけますか?
「まあまあ、落ち着きなよ、生きていれば、そのうちいいことだってあるよ」
と言いますか?
「いやいやいやいや! それ映画の中の話だよ?? ただ映画を見ているだけだよ? あなたの人生にはなんの影響も及ぼしてないよ? 目を醒ませよ!!」
と言うのではないでしょうか?
実はあなたの身に起こっていることもこれと同じことです。
苦しみが頭の中だけで起こっていることを体験してみよう
さすがにこれだけで納得してもらえるとは思っていません。なぜならこれはただの例え話だからです。ではここからは、あなたの苦しみが実は妄想であることを実際に体験してもらいます。
まずは、一人になってください。周りに誰かいるのであれば、一人になれる空間に移動してください。そして、目を閉じてください(ただし、この時点ですでに目を閉じてしまうと、それ以降のステップを読むことができなくなってしまいますので、一通り読んで、実践する直前に目を閉じてください)。
過去にあったイヤな出来事を思い出してください。できるだけ強い感情を伴う出来事を、事細かく、鮮明に思い出してみてください。「明らかに向こうが通路を塞いでいたのにぶつかってきて謝りもしなかった。それどころか、舌打ちをしてきた」とか「明らかに上司のミスなのに、責任転嫁して自分になすりつけた挙句にそのミスについて激しく罵倒された」とか、なんでもいいのですが、なるべく負の感情が強く呼び起こされそうなものが良いです。
⚠️ 最初にも書きましたが、親に虐待されていたとか家庭内暴力を受けていたなど、トラウマレベルの過去を持つ人はここでは対象外です。医師のもとで治療を受けてから、あるいは医師に相談しながら安全に十分に配慮した上で行ってください。
そのとき、あなたは(ここにある全部とは限りませんが)怒り・苛立ち・悲しみ・恥・不安・恐怖・罪悪感・嫉妬などなど、様々なネガティブな感情を感じたと思います。
そうした感情を一通り味わったら、そのときの出来事を思い出すのをやめて、目を開けてください。
さて、あなたの目の前には「ぶつかってきて舌打ちをした通行人」や「責任転嫁をする上司」はいますか? いませんよね(今は一人なので)。負の感情を発生させる対象(相手)がいないのに、それも過去の終わったことなのに、あなたはそのときのことを思い出してイヤな気持ちになりましたよね。
でも、それって、頭の中で起こっていることですよね? たしかに今はぼくがそうするように指示したのであなたはその指示に従ったまでですが、日常生活を送っていると、ふとした瞬間にそうしたイヤな出来事を思い出すことってありますよね。でも、それって妄想ですよね? その瞬間、あなたの目の前にその怒りの対象となる相手はいないですよね?
実は、人間の苦しみの正体はこれだけなんです。ただ妄想しているだけに過ぎないんです。あなたの脳みそが、不快な気持ちになる夢をあなたに見せているだけです。目を醒ますと、そこには不快になる対象となったものは存在しません。ただの妄想です。
たしかに「ぶつかってきて舌打ちをした通行人」や「責任転嫁をする上司」がいたことは事実です(そしてそれを記憶しているのも事実です)。その出来事が起きた瞬間に、それに対して不快感を覚えるのも自然です。しかし、その出来事は延々と続くわけではありません。「ぶつかってくる」のはほんの 1 秒ほどのことですし、人間の怒りの感情は最大でも 10 秒程度しか続かないと言われています。
「責任転嫁をする上司」に罵倒されているときは、不快感を覚えつつも「どうやって早くこの無意味な説教から抜け出そうか?」のように、その場をどう切り抜けるか? ということに頭を使っていることのほうが多いのではないでしょうか? 実際に不快感を強く感じるのは、上司からの罵倒が終わったそのあとなのではないでしょうか。
自分の執着の正体を知る
ここまで読んで、「あー、なんだー、苦しいのってただの妄想だったのかー!」と理解し、すべての苦しみ・悩みが消えたのだとしたら、あなたはもう悟りました。おめでとうございます 🎉
とはいえ実際問題は、「そんなことですべての悩みが消えるなら苦労しないよ!」という人がほとんどだと思います。
では、なぜ人はなにかに悩み、苦しんでしまうのか……。
それは執着があるから です。
ここがもっとも重要であり、かつ最も難しいパートです。なぜなら、人それぞれ、なにに執着しているかが異なるから です。
さっきの「ぶつかってきて舌打ちをした通行人」や「責任転嫁をする上司」は、あまりにも典型的なイヤな出来事の例であり、それを聞くと、誰もが「大変だったね、嫌だったよね……」と共感してくれます。
しかし、人間の悩みは人それぞれで、万人が「イヤなこと」として共有しているものばかりではありません。まったく同じ仕事をしているのにやりがいを感じている人と感じていない人がいることや、社会的に見て明らかに成功しているのに楽しくなさそうな人がいるのはそのためです。
なので、一概に「あなたの執着はこれです」と断定することはできないのですが(であるがゆえに難しいのですが)ここではいくつか代表的な例を挙げてみます。あくまで「代表的な例」なので、あなたに当てはまるとは限りません。
ある男性の例
ある男性は言いました。もっとお金を稼ぎたい、と。
「なぜお金を稼ぎたいのか?」と聞くと、表面的には「豊かな生活がしたい」とか「安定した生活を送りたい」とか言うのですが、はたからみれば、この人は十分お金を持っており、豊かで安定した生活を送っているように見えます。しかし本人は、「まだ足りない」「こんなもんじゃない」と思って苦しんでいます。
彼の今までの人生を聞いていると、幼少期はさみしい思いをしていたことがわかりました。両親は共働きで面倒を見てくれるおじいちゃんやおばあちゃんもいないので、一人で遊んでいることが多かったと言います。でも、本当はお母さんやお父さんともっと一緒に遊びたかった、もっと構ってほしかった。
だから、学生時代は一生懸命勉強していい成績を取ることに必死でした。その成績を両親に見せて「ぼく、こんなに良い点数とったんだよ! えらいでしょ?」と褒めてほしかったのです。でも両親は忙しく、表面上は褒めてくれるものの、それは気持ちのこもっていないただの言葉であり、その感情は幼い少年にもよく理解できました。彼は「まだ努力が足りないんだ」と思いました。
そしてそのまま勉学に励み一流大学に入りました。卒業後は一流企業に入社して、仕事も着実にこなし昇進もして、はたから見れば何不自由ない順風満帆な人生を送っています。
でも、どこか心は満たされない。もっと仕事をがんばらないと、もっと稼がないと…… そんな思いばかりが募り、休みたくても休めない、そんな悶々とした日々を過ごしていました。
さて、この男性は何に執着しているのでしょうか? お金でしょうか? それも多少はあるのかもしれませんが、根本的には幼少期に親に構ってもらえなかった、だから(「ぼくはここにいるよ!」という存在を)親に認めてほしかった、過去の承認欲に対する執着です。
ここで大事なのは、承認欲を持つことが悪だと言っているのではありません。承認欲は人間の生存本能のひとつなので、完全に消し去ることはできません。やるべきことは、その承認欲という執着が自分にはあると認め、それを手放すことです。
ある女性の例
ある女性は言いました。美容整形がしたい、と。
その女性はとても美人です。とても若いです。多くの男性からモテてモテて仕方なくて引く手あまたです。だから、はたからすると、いったいなぜ美容整形をしたいのかまったくわかりません。本人は「頬の輪郭が角ばっているのが気に入らない」とか「目の大きさが左右で微妙に違うのが気に食わない」とか「ここにホクロがあるのが邪魔だと思う」とか様々言うのですが、周りからするとそれも含めて美人だなと思うのです。
でも本人はいくらそういう言葉を周りから聞いても聞く耳を持ちません。そしてある日、実際に美容整形を行いました。さきほど言っていたすべての「(本人が思う)気に入らない部分」を整形し、無事、手術は成功しました。
ところが、念願だった整形が無事に成功して見た目が変わったのに、本人はどうも晴れやかではありません。今度は「おでこが広いのも気になるなー」とか「鼻をもうちょっと高くしてもいいかなー」とか言い始めました。はてには、今でも十分細いのに、体系もキュッとほっそりしたほうがいいと思い無理なダイエットをした結果、体調を崩してしまいました。
整形には高額な費用がかかります。彼女は裕福ではなかったため、生活費を切り詰めてまで整形手術を受けました。もう貯金はありません。でもまた整形がしたい……。だから、いま働いている会社をやめて、風俗嬢になると言いました。
なぜそこまでして彼女は見た目を気にするのでしょうか?
彼女の生い立ちについて聞いてみると、学生だったころもモテたようです。だから、男子からはもてはやされていろいろ優しくしてもらったりしていたようですが、逆に女子から疎まれていじめを受けていたと言います。
「お前、男子にモテて調子に乗ってるかもしれないけど、本当はブサイクだよ」
「男子なんか、ただ *** たいだけで別にお前に興味あるわけじゃないだよ」
「お前がいるせいで、私に彼氏ができないだ。お前なんか消えてしまえばいいのに」
いじめは学生のころはしばらく続きましたが、やがて卒業します。そして社会人となり、時間とともにいじめの傷は癒え、「そんなことはもう過去のこと。今の私には関係ない」と明るく振る舞います。
さて、この場合だと、なにに執着しているかは明らかだと思いますが、人間とは不思議なもので、周りから見れば明らかなことでも本人は(「それは過去のことだ」と割り切ったつもりになって)それに気づかないということがよくあります。岡目八目ってやつです。
誤解なきよう念のため伝えておくと、整形が悪いとか風俗嬢になるのが悪いとか言っているわけではありません。本人がやりたいと思うことをやっているのに、なぜか本人は嬉しくない(満たされない)ところが本質です。この場合も執着(過去を思い出すのはつらいから「もう割り切った」と思い込みたい、忘れたい、という執着)があると認め、手放すことが重要です。
筆者の例
参考までに、ぼくの例も挙げておきます。
……と思ったのですが、書いていたらあまりにも長くなってしまったので、別記事に分けることにしました 👉 ウンコよりも汚いオレの執着をネットの海に漏らしてみた 💩
自分の執着を見つけるときの心構え
あなたにとっての執着は一つとは限りません。コアとなる執着は少なくても、それに付随する執着は 20 〜 30 個、あるいはそれ以上あるかもしれません。
執着は、様々な形となって現れます。コアな執着が、日常生活レベルの小さなところに小さな執着として現れます。全部を一気に見つけるのではなく、日常の小さな執着から、「あ、これが執着か」と気づき、その背景にある大きな執着を芋づる式にひも解いていくと、やがてコアな執着にたどり着きます。
たとえば、この文章を書く直前のぼくは「これを読むみんなに伝わるようにちゃんと書かなきゃ」と思っていましたが、これは「書きたい」ではなく「書かなきゃ」という執着になり少し執筆の手が鈍ったので、「あ、これは執着か(別にみんなを完全に理解させないといけないわけじゃないし、自分の文章がそれを目指す必要はないよね)」と気づいて手放すことで、再び執筆の原動力を得ました。
ちなみにぼくの場合のこの執着は、完璧主義の執着です。同じようになにかを書く手がなかなか進まない人がいたとしても、その人は「自分の考えを他人に理解させたい」という支配の執着によるものかもしれません。その人の行動の結果だけでは執着の原因は特定できません。何を思って「うまく書けない」という苦しみを抱えているのか、それは内面を見なければわかりません。
コアな執着を見つけることは、根気のいる作業です。先の女性の例のように、現時点で、あなた自身もそれを執着だとは思っていない「ステルス執着」もあるかもしれないからです。
しかし、当たり前ではありますが、あなたにとっての執着を見つけない限りは、それを手放すこともできません。「見えないものを捨てる」のは不可能だからです。
とはいえここで、「絶対に見つけなければならない」とか「すぐに見つかるはずだ」とは思わないでください。なぜなら、それが新たな執着になる からです。「今までこんなに苦しかったんだから、すぐに見つからなくても不思議じゃないよね。それまではふつうに日常生活を送って、ふとしたときにぼんやり考えて見つかったらいいよねー」くらいの軽い気持ちでいてください。
手放す練習
自分の執着がなんなのかがわかったら、あとは簡単です。それを手放してください。「手放すったって、どうやって……」って思うかもしれませんが、最初のほうで、あなたはこのように宣言したはずです。
「私は、今後の人生において、自分が幸せになることを第一の価値観に据えます」
これが最も重要な価値観であるなら、たとえば「ムカつく相手を許さない」ことはこの価値観に矛盾しませんか? あなたの目標を遠ざけませんか?
難しければ、執着を感じたとき、以下の質問に答えてみてください 👇
- 💡 「幸福感を損なってまで、苦しみを増やしてまで、あえて我慢しなければならないこと、成し遂げなければならないこと、やりたいことは、あなたの人生に存在しますか?」
- 💡 「物事に執着してまで生き続けなければならない理由は、あなたの人生に存在しますか?」
- 💡 「その執着は、あなたに幸せをもたらしますか? 苦しみをもたらすのに手放さないことは、あなたの人生において何の意味がありますか?」
- 💡 「心安らかに生きる、それ以上に大切なもの(あえて我慢しなければならないこと、成し遂げなければならないもの、やるべきこと)とはいったいなんですか?」
一回ですべてを手放さなくても大丈夫です(「すべてを一度に手放さなければ!」と思うのもまた執着です)。執着を感じるたびにこれを思い出して自問自答してみてください。少しずつ、執着していたことが馬鹿馬鹿しく思えてくることでしょう。
また、同じ執着を一度手放したらもうそれでその執着に悩まされないわけではありません。執着は、長年染み付いた思考のクセのようなものなので、一度手放せたと思ったとしてもまた別の瞬間にふと蘇ってきます。でも大丈夫です。出てくるたびに「あ、また会ったね」と気づいて「バイバイ」と別れを告げるだけです。一回でさか上がりをマスターできるわけではないのと同様、執着を手放すのもまた練習です。
今後、執着が現れたときにその渦に飲み込まれてしまわないように、あなたが陥りやすい執着のリストを作っておくのもいいかもしれません(そのリストをきれいに完璧に作ることへの執着には気をつけてくださいね。別に作らなくてもすぐに手放せるならそれで OK です)。
落とし穴
さて、ここまでで心が軽くなった人もいるかと思いますが、この過程でまた別の執着を生み出してしまうこと には十分気をつけてください。
たとえば
- 「私は執着を手放さねければならない(そうでなければ幸せになれない)」という執着(執着への執着)
- 「これだけ今まで苦労してきた私は幸せにならなければならない(そうなれないのはおかしい)」という執着(幸福への執着)
- 「この幸せな気持ちがいつまでもずっと続いてほしい(続かなかったら嫌だ)」という執着(これも幸福への執着)
- 「こんなものをまともに信じたら、私の人生は陳腐なものになる」という執着(恐怖・抵抗への執着)
- 「そんな自己中心的な生き方をしたらダメな人間になる(からすべきではない)」という執着(罪悪感への執着)
- 「自分はこうした苦しみからもう降りたが、世の中にはまだくだらないことで見栄を張ったりして苦しんでいるやつらがいてバカだなーと見下したい」という執着(優越感・慢心への執着)
- 「これは素晴らしい考え方だから、周りにもわからせたい」という執着(支配への執着)
といった具合です。いくつか誤解されそうなものに関しては重点的に説明します。
「幸福への執着」の勘違い
「幸福への執着」に関して勘違いしないでいただきたいのは、「幸せになる」という願望を持ってはいけないという意味ではないということです。しかし「幸せにならなければ!」というのは執着です。「ま、今すぐ幸せになれなくてもいっか。もともとこれだけ苦しいんだからすぐに幸せになれなくて当然だよね」くらいの軽い気持ちでいてください。
幸福とは、磁石のようなものです。幸福に執着すると(幸福と同じ極で近づくと)幸福は離れていきます(斥力が働きます)。幸福に執着しなければ(考え方(極)を変えて、幸福と別の極でじっと待っていると)向こうから勝手に幸福がやってきます(引力が働きます)。皮肉なことですが、これが真実です。「幸福に降伏」してください。
「恐怖・抵抗への執着」の勘違い
「本当はやらなきゃいけないことがあって、やらなきゃって思うのになかなか手がつかない……。だけどこれも執着だっていって手放したら、本当にやらなきゃいけないことをほったらかしにして大変なことになってしまうのではないか……」
おそらくこれは真面目な人、完璧主義な人にありがちなのではないでしょうか? ぼくもかなりの完璧主義者だった(今でもときどきそうなることもある)ので気持ちはよくわかります。
だけど、今までの人生を振り返って、「やろうやろうと思ってなかなか進まなかったこと」がある一方で、「まあいいや、最悪これをやらなかったところで死ぬわけじゃないしなー」って思っていたら、なんか気づいたら取りかかっていて終わらせることができた経験はありませんか?
まさにそれです! 先延ばしにしてしまう理由は人それぞれ、そして状況ごとに様々ですが、たいていの場合は「やらなきゃダメだ(悲惨なことになってしまうという未来への恐怖に対する執着)」とか「完璧にこなさないといけない(ここで失敗したら重要なポストから降ろされてしまうかもしれないという、他人への期待に対する執着、または自分の地位や見栄への執着)」という、執着が原因となってブレーキがかかってしまっているのです。
「これは執着だ」と気付き「ま、いっか(最悪そうなっても不幸になるかどうかは自分の考え方次第だし)」と手放すことで、かえってうまくいったりするものです。皮肉なことですが、これも真実です。
だからといって、『「ま、いっか」って思っていれば自然にできるようになるからそうなることを期待しよう』と思うと、それはそれで執着なので気をつけましょう。
「罪悪感への執着」の勘違い
また、「罪悪感への執着」ですが、「そんな自己中心的な生き方をしたらダメな人間になる」は多くの人が持つ勘違いです。自分の幸せを第一に願ってそれに従って行動することは、「わがままを言って我を通す」こととは違います。それは「相手をコントロールして思い通りにさせたい」という執着です。それはやがて苦しみになります(幸せにはなりません)。
そもそも、執着がまったくない状態で意図的に人を傷つけることは、(倫理的にとか道徳的にとかじゃなくて)そもそも 生物的に 不自然だと思います。生物的に、そんなことをする意味がわからないです。お金欲しさに人を傷つけるのは、お金か、あるいはその背景にあるなにかに執着しているからです。執着が、自分も他人も傷つける のだと思います。Lose-Lose です。
それに、自分の心に余裕を持った人間は、自然と人助けをしたくなります(別にそうならなくても気落ちしないでください。「そう思わなきゃ人間としてダメだ」と思うのもまた執着です)。幸せとは、分け与えて自分の分が減るものじゃなくて、与えた側も、与えられた側も増えるもの なのです。Win-Win です。
だから、自分が気持ちよくなるために人助けをするのは、全然 OK だとぼくは思います。「情けは人の為ならず」とはよく言ったものです。そこに「利己的だ、利他的だ」あるいは「偽善者だ」という判断を差し挟むのは、いつだって周り(世間)です。そんな判断いりません(もしそう言われるのが怖いなら、それは恐怖に対する執着(ただの妄想)です)。
だいたいそれを言っている相手のほうが執着しているのです。「いい子ぶって周りの評価を得ようとしているから悪いヤツで、成敗しないといけない」という執着です(あなたが本当にそういう打算的な理由で人助けをしているなら、それももちろん執着ですよ!)。親切は「人間としてしなければならない道徳的な義務」なのではなく「執着から解放されて自由になったとき、自然としたくなるもの(させてほしいもの)」なのです。
裏を返せば、(まだ)あなたが人に親切にしたいと思えないなら、別にしなくて良いのです。その瞬間がなかなか訪れなくても、気落ちする必要はありません。繰り返しになりますが、「親切にしないといけないという思い」が新たな執着になるからです。
もしかしたら、あなたは自分の行動が親切だと思わずに他人に親切にしているのかもしれません。それはそれでいいじゃないですか。それを自覚して、「親切にしてる俺ってえらいなー(親切にしてないヤツはダメなヤツだから批判したいなー)」っていう慢心への執着に陥る可能性を最初から一つ消しているのです。ラッキーですね。
他人や自分自身を判断する執着には要注意
ついでにこれもお伝えしたいです。「あの人は優しい」とか「この人は優しくない」とか人を「判断」することってあると思いますが、これも執着につながります。そもそもあなたは何を根拠に「その人」(あるいは「自分自身」でもいいです)を「優しい・優しくない」と判断しましたか? どのような状況においても、どのような相手に対しても、必ず絶対に「優しい(とあなたが思う)」ことってありますか? それって妄想ではないですか?
なぜ、人は優しくなれないのか。それは執着にまみれているからです。(後述する理論に従うと厳密には間違っているのですが)そういう意味では、人間は本来は全員「優しい」んだと思います。ただ、生きる過程で、世の中にある泥(執着)を知り、それにまみれることで蓮(優しさ)が覆い隠されてしまうのだと思います。
人を「優しい」「優しくない」の二元論で語るから、「優しくないヤツには親切にしない(意地悪してやる)」という執着が生まれ、それを受けた相手も鏡のように反応し、苦しみの連鎖が生まれます。そもそも「◯◯ さんは優しい人です」という認識が誤りです。「◯◯ さんは ◯◯ な人です」とは、本来誰に対しても(自分自身に対しても)言えないはずです。
だって、そうでしょう? 「私は明るい性格の人間です」って自分で言っている人がいたら、家族を目の前で皆殺しにされても、平気でニコニコしていないといけません。もしちょっとでも悲しくなったら「明るい性格のわたし」は崩壊します。自己否定です。死ぬまでずっと「○○ な性格を維持するわたし」という人間がいるのなら、お目にかかってみたいです。
「そんな極端な話をしているじゃないよ。一般論として他と比べて明るい割合が多い人っていう意味で言っているんだよ」と反論したくなるかもしれませんが、仮にそうだったとして、「自分は ○○ な性格の人間です」と自己分析することは、あなたを幸せにすることがありますか?
そもそも「他人と比較しないと(相対的に)明るい性格だ」と言えないなら、「他人と比べる」ことで執着が生まれるし、人には誰でも気分の浮き沈みがあるので、「自分は明るい性格だ」とセルフイメージした状態で、落ち込んでいるとき(明るくないとき)が来ると、そのダメージが増幅されます(自己否定につながるので)。
逆に「自分は暗い人間だ」と自己分析した場合は、まあ言うまでもないですね。「暗い人間だから人付き合いがうまくいかない」と思い込んでしまえば(妄想してしまえば)本当にうまくいかなくなるものだし、「暗い性格」がいつでも悪い結果をもたらすとは限らない(いいこともある)からです。いずれにしても「そう判断する」ことは、自分が苦しまずに生きることに、マイナスになることはあっても、プラスになることはありえません。自他問わず、人を「○○ だ」と判断するのもまた執着です。
正直、こんな文章を書いている自分に自分が一番驚いています。なぜなら、今までの人生、「こんなに不公平なら、自己中心的に振る舞ってもバチは当たらないはずだ」と考えて生きてきたからです。社会人になって、嫉妬した相手(嫉妬という執着の対象になりえる相手)に意地悪をしたこともあります。しかも会社のミーティング中に、です(そして、何の因果か、その人の名前は「サトル」だった……!!)。
もちろんその相手には、あのときは悪かったなーとは思いますが、それで「自分はダメなヤツだ……」と自己嫌悪に陥ることは、もはやありません。なぜなら「ぼくは悪いやつ」は成立しないからです。もし成立するなら、今後の人生で、まかりまちがって(笑)ちょっとでも感謝されるようなことをしてしまったら、自己否定になってしまいます(うわー! 感謝されちゃった!!「ぼくは悪いやつ」じゃないんだー!!! っていう笑)。
「悟りを開く」とは絶対に落ち込まないことではない
あとこれもお伝えしておきたいのですが、悟りを開いたからといって、今後の人生で絶対に落ち込まないわけではありません。「え? 違うの?」と思うかもしれませんが、これは今から説明する状況を想像すればわりと自明です。
いくらメンタル最強マインドを身につけたところで、「一歩も外に出ず、カーテンを締め切って、エナジードリンクとファストフードを食べながら、ずっと椅子に座り続けて、真っ暗な部屋の中で、寝る間も惜しんでひたすらゲームをやる」などの生活を、数週間、数ヶ月としていたら、さすがに気が狂いますよね。
まあ、何にも執着していない状態で、自らこのような状況に身を置き続けること自体をしたいとは思わないとは思います(それにこの例は極端です)が、たとえば本当に過酷な(違法な)ブラック企業に務めているなど、それに似た状況を強制的にさせられているのであれば、冒頭でお話したとおり、まずそちらの問題を解決するのが先です。
そういう状況じゃなかったとしても「メンタル最強マインドになったから絶対に落ち込むことはないんだ!(そうなったらおかしいんだ)」と思ってしまったら、やはりそれは執着なので苦しくなってしまいます。「まー落ち込むこともあるよねー人間だし」くらいの気持ちで気分転換とかしていると、気づいたころにはもう落ち込んでおらず、もはや何に落ち込んでいたかもわからなくなってきたりします。
さいごに
自分の執着がなんなのか、まだわかっていない状況でここまで読んでも、言葉としては理解したが、なんとも腑に落ちない…… という感じだと思います。
そこが本質なのです。「悟りを開く」とは、東洋哲学に関するたくさんの本を読んで、小難しい理論を理解して知識をたくさん積み上げることでたどり着くものではないのです。自分の心で「実感を得る」ことなのです。
言い換えれば、どれだけ言葉を重ねても、実感を得なければ「そういう考え方もあるよね」で終わってしまいますし、逆に実感さえ得てしまえば、本 1 冊読んだだけで(なんならこの記事を読んだだけで)完全に理解してしまうもの なのです。
たとえるなら、ぼくがプロのピアニストだとして、「ピアノはこのように弾けば上手に弾けるよ」といくら力説したとしても、それを聞いた人が全員、その瞬間ただちにプロレベルのピアニストになれるわけではないのと同じです。
そして、たいてい「悟りを開いた」とか「完全に理解した」とかいうヤツはロクでもないというのが世間の常識だと思います(ぼくも自分で言って自分でそう思います笑)。
でも、これはそういう類のものではないです。あなたがある日、「あ、俺、悟り開いたかも」と思ったら、それがあなたにとっての悟りになります。みんな同じだと思うほうが不自然です。あなたにとっての執着がなんなのかに気づき、それを手放すことができたら、あなたは、あなたにとっての悟りが完全に理解できた、と言っても良いでしょう。厳密な言葉としてそう言えなかったとして、それがなんだというのですか? その実感以上に重要なものがあるでしょうか?
ぼくにとっての「悟り」とは、「将来なにが起こるかはまったくわからない。でも、なにが起きたとしても、この道を見失わない限り、もはや苦しみを感じたり自分の人生を不幸に思ったりすることはないだろうという、たしかな実感を得ること」です。それは、神を信じるなどの怪力乱神ではなく、絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせるおまじないでも、はたまた絶対に不幸にはならないはずだという執着でもありません。ただ自分の人生に安心感と信頼が持てる、そういった感覚を身を持って感じることです。
みなさんの苦しみをわかったような口を聞いてごめんなさい。でも、実際に、わかっていません。なぜなら繰り返しになりますが、人それぞれ、なにに執着しているのかは異なり、ぼくはみなさんの人生を知らないので、それをピンポイントで指摘することはできません。だから「わかったような口を聞いている小僧」であるというあなたの指摘は、正しいです。
それに、悟りを開くことを知ったような口を聞いてごめんなさい。本当は(本当の意味では)わかっていないのかもしれません。ぼくも今でもイライラしたりすることはあります。人を傷つけてしまうこともあるかもしれません。
でも、なんていうんでしょうか、もうそんなこと、どうでもいいくらい清々しくなりました。「悪いこと(と世間一般で判断されていること)をするのも含めて俺なんだから何が悪い」と開き直っているわけでも、「もうなにもかもどうでもいいやー」と人生を諦めたわけでもありません。むしろ「ここから自分の人生が始まるんだ」というワクワクした気持ちでいっぱいです。それこそ「自分が苦しんでまで生きる人生にいったい何の意味があるのだろうか?」って感じです。
ついついなにかに反応して(ちょっとだけ)執着しちゃうことがあっても良いのです(別に「ちょっと」じゃなくて「たくさん」してしまっても、それに気づいてまた再スタートを切ればいいんですよ)。大事なのは、「金輪際、二度と執着しないようにする人生」を歩くことではなく、「執着したなー」と思ったら「そのままだと苦しくなりそうだから手放そうかなー」といった軽い気持ちでいいのです。
ぼくはみなさん一人ひとりに「悟りを開かせる」ことはできません(人それぞれ執着が異なるし、そもそも解放されることを心から望んでいるとも限らないので)。でも、そう望む人たちのほんの少しお手伝いができたらいいなと思い、この文章を書くことにしました。少しでもお役に立てたのなら、これ以上幸せなことはありません。
